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2015年8月の記事

2015.08.31

rebalance☆

ぶつけてしまった母のアクア君も本日無事治療を終え、元の姿に戻ってひと安心。ごめんね&ありがとうなさくらです。

すっかり秋の長雨のようなお天気ですが、雨にぬれるさくら号を母が見て、「きれいな赤やなあ」。「うん!ごっっっっ・・・ついキレイでしょ^^」と言い切れる自分がうれしく、美しいソウルレッドなさくら号は私を乗せて快調に走ってくれています☆

Demio

クルマ屋さんいわく、マツダのシェアは四国がいちばん低いそうですが、お膝元の広島でさえ25%くらいだとか。これがトヨタなんかだと、「トヨタ車に乗ってないなんて」という雰囲気もあり、関係のある地域はほとんどの人がトヨタ車に乗っているらしいのですが、そういう“空気”で人を縛ることがないのも好ましい。マツダ車のシェアは日本でも5%、世界では2%くらいであるけど、「まあトヨタを選んでおけば安心」みたいな「とりあえず」な選択をされるのではなく、「絶対にマツダのこの車に乗りたい」というコアなファンをつかめればいいんだという経営理念にも大いに共感しました。

Be a driverを実現できたのもマツダinspiredは大きかったですし、四国のシェア向上に少しだけですが貢献できたのはうれしいことで、また考えてみるとさくらのこれまでの稼ぎ(自民党職員の給与は国民政治協会から出ていることになってます)はトヨタからの政治献金が大いに入ってるはずなので、トヨタからきたお金でマツダ車を買ったというのは、ある意味政治献金を付け替えたようなものであり、なんか社会的に良いマネロンを行った気分です(笑)生まれて初めての大きなお買い物でしたが、こういうふうに自分が共感する企業の応援になるようなお金の使い方ができて、そして本当に惚れ惚れするほど美しいソウルレッドの車に乗れて、とってもハッピーです^^

さて今日さくら号で連れて行ってもらったのは、整体。徳島に戻ってから、身体を誰にみてもらおうか困っていたところ、ちょうどいいタイミングで教えてもらってさっそく出かけてみたのですが、素晴らしい先生にめぐり会えました。まだ通い始めて1か月ほどですが、求めよさらば与えられんという感じです。ただし、めっちゃめちゃ痛いですけど。。。痛いと言っても、どんなに叫んでも先生は全然手を緩めてくれず、普通に話しかけてくるので、そのペースに巻き込まれつつ、先生の話が結構面白かったりします。結構本質を見抜かれるというか、

先生「しかしアンタもかなり男入っとるなあ」

さ「やっぱりそうですか。これまで何人もに“僕より男気あるもんなあ”と言われたことあります」

骨格ではなく性格の話ですが、キョウレツなオッサン社会のなかで鍛えられてきたので(-_-;)「ようこんなになるまで我慢しとったなあ」と言われるくらいの身体の歪みも、それが普通と思っていた(感覚がマヒしていた)。いま良い状態に持っていくために、根本的に骨格の歪みをバキバキと治してもらっているところです。かなり長い時間をかけて蓄積されてきたものなので、ほんとに痛いですけど(涙)先生のおかげでずいぶんと顔色も良くなってきて、あたらしい気持ちも湧いてきました。何をするにも、身体が資本。つい気持ちが前へ前へで身体の不調に気付かず気力で走りすぎて(→こういうところも“男入っとった”らしいです)、ある日突然パタンと倒れてしまわないように、ネイルなんかも施してもらって気持ちを上げつつ(いま超ラブリーなお手てです☆)これからはもう少し男気を抑えて?!女性らしさを大切に、心と身体のバランスを取りながら進んでいきたいと思っています☆

あしたから9月。バランスの悪かったところはそれぞれ調整かけて、元気にすすんでいきましょう☆

*さくらの考える「男気」(men and women)はこちら

2015.08.29

ソウルレッド☆

待望のさくら号がやって来ました!!!(≧▽≦)

初代さくら号に私が選んだのは、マツダのデミオです。とにかく「絶対赤い車に乗る」というのは決めていたのですが、これまでの人生で車に乗るなんて考えてもいなかったから、クルマなんてまったく興味もなかったし、みんな同じに見えてどれにしていいのか分からなかった。だけど「うんてん」を覚えて、道行くCarsを見ているとこんなにいろんな種類があって、それぞれデザインも性能も違って、さらにはクルマにも表情があるなんて知りませんでした。

そんなさくらが、このデミオの美しい赤、ソウルレッドに出会った瞬間に魅せられ、恋に落ちてしまいました。さらに環境にやさしいというとハイブリッドカーしか頭になかったのですが、クリーンディーゼルというエンジンがあることも知りました(エコカー減税もフルにききました)。これから私を行きたいところに運んでくれる、頼もしい相棒になるさくら号。走りながら、ドキドキします。生まれて初めて、自分の車に乗って運転している。しかもこんな美しい赤い車。なんかまだ、信じられないくらいです。

マツダのこの美しい広告が大好きで、魂揺さぶられた昨年の夏。

Be_a_driver1
自分の人生の、主人公になろう。自分の行く道を、自分で選ぶ人になろう。自由に、積極的に、人生を美しいものにしよう。既存のルールや常識に縛られない人になろう。自分の行く道は、自分で決めたほうが、楽しいに決まってる。人生の、ドライバーになろう。

昨年夏は、まさか自分が車を運転するようになるなんて本当に思ってもみませんでしたが、「行きたい」と思うところに行けるというこの自由な感覚がなんとも楽しく、行動範囲が格段に広がっただけではなく、文字通り世界が変わった感じです。高校を卒業してすぐ免許を取ってたら、そしてあの自由のない魔界生活がなかったら、さくらはここまでこのマツダの広告の意味が分からなかったと思うと、これまで歩んできたすべてはこの感動のためだったのかというほどです。

車を運転するようになってから、毎日無事であることだけでも奇跡だと痛感しています。これからはさくら号に乗って、いろんなところに行こう。行きたいところに行こう。そして、自分で道なきところに道をつくろう。人生をドライブして、フロンティアを切り拓いていこう。それが牡羊スピリットなさくらだから☆

持論の「人生はドラクエ」でいえば、「さくらは船を手に入れた!!」という感じかな。もう歩き倒した見慣れた世界から、あたらしい大陸にこれで行けるようになる!!超ワクワクしています♪

Where there's a will, there's a way. さくらの人生の、あたらしい大きな第一歩です☆魂は情熱で赤く輝かせながら、「さくせん」コマンドはもちろん、「ガンガンいこうぜ」で!!!!!(≧▽≦)b

*人生の「うんてん」は「ガンガンいこうぜ」ですが、車の運転は「いのちだいじに」です。人馬一体の走りのベストポジションも研究中!

2015.08.28

Hard to Say I'm Sorry

「慣れたころに絶対やるよ」と巷間言われているとおり、昨日ついに車をぶつけてしまいましたさくらです。1か月ぶりの縦列駐車で、コンクリートの壁にボコンとぶつけたので、幸い他の車も誰にも傷をつけずに済みましたが、母の車なので丁重に謝り、修理代はさくら負担ということになりました。さくら号納車直前に、なんということでしょう!!(>_<)私の「うんてん」スキルアップのため、練習にたくさん乗せてもらったアクア君(水色なので)にも申し訳ないことをしました。うう。

これまでも運転中何度かヒヤリとしたことはあったのですが、昨日は心に引っかかることがあって、普通にブレーキを踏めばいいところで身体が反応しなかった。皮肉にも縦列自体はめちゃくちゃキレイにハマっていて、いつもならもっとソロソロと恐る恐る動かすのに。。。完全に心ここにあらず状態だったさくらが悪いのです。ぶつけた衝撃というのは、これは覚えておかなきゃいけないですね。ぶつけながら覚えるというのは恐ろしすぎるので、より心して運転していかなければです。

さて「悪いことをしたら正直に謝る」といえばワシントンと桜の木ですが(絵がキレイなのでここからお借りしました。記事のタイトルはこの歌からですが)、

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正直を良しとするこのお話は、ピノキオやオオカミ少年など「嘘をつくとこわいことになるよ」と脅すよりも子どもの教育に効果があるそうですが(WSJの記事)、さくらはこの「謝るまで」の気持ち悪さというのが嫌でたまらなくて、早くこの胸のつかえを取り去りたいというのがあって、自分が悪かったなと思ったらできるだけ早く謝りたいです。

魔界での仕事で、さくらが心がけていたのが、ミスをしてしまうのは仕方がないので①嘘をつかない(失敗を隠さない)②自分がミスをしたら可及的速やかに認めて謝る③同じ間違いは二度としない――だったのですが、この真逆をやる人たちに囲まれて仕事をしないといけなかったときは気が狂いそうになりました。どうせバレるのに、すぐ認めて謝らずミスを隠そうとして結局ことが大きくなる→より怒られるという“人のせいにする”というびっくりするような文化圏では、できるだけミスをしないように仕事をすることよりも自分のミスをいかにほかの誰かのせいにするかに重きが置かれていて、しかも同じ間違いが延々と繰り返され、本当に疲れ切りました。こういう人たちと一緒に仕事をすると、何でもこちらのせいにされたらたまらないので(しかも私の立場を悪くするように意図的にやってくるので)、いい仕事をすることに集中するよりも、確固たるアリバイ作り(自分はちゃんとやっていて、他の人によるミスに責任はないことを証明すること)に取られる時間と労力がものすごく多くて、疲弊しきってました。

いろいろな失敗もたくさんしてきましたが、この「人のせいにしない」が当たり前でなかった魔界では、誰も見ていないと思っていても、やはりどこかで絶対に見ている人がいる、と実感することも多かったです。個人的に大事にしてくださった方々は、私のなんでも顔に出てしまう嘘のつけなさに、ああいう世界なので余計に安心感を持っていてくれたのかもしれません。

「本当はイヤだけど行くと言ってしまった飲み会」も、その日までイヤ~な気持ちを持ち続けないといけないのが苦痛であるように、そういう苦痛が続くのが耐えられないので、少しでも嫌だと思ったら断るようにしていました。その何とも形容しがたい胸のモヤモヤ感は、「自分が悪かったな」と思うことがあって「ごめんなさい」と言えなかったりしたときは、その何百倍も胸に詰まって苦しくなります。「その自分の苦しさに耐えられないから」というのは、あんまり教育的な説明の仕方ではないかもしれませんが、さくらにとっては「嘘をつかない」というのは、正直でいるほうが楽だから。気持ち悪い状態が続くのに耐えられないので、嫌なことはさっさと終わらせたい。仕事は責任も明確ですし、割り切ってできるのですが、実際の人間関係のなかではなかなか難しいことも多いですし、これからもたくさんぶつかりながら学んでいくのだと思いますが、この「さくら3原則」はこれからも大事にしていきたいと思っています。

先日やっとM:I 5を観ましたが、インテリジェンスオフィサーは長年の夢だったけど(わりと真剣に思ってたんです)、絶対さくらには無理だと思いました。人をだましたり、上手に嘘つけないし。結局はHomelandと同じく 「natinoal securityのため」って何だろうと考えさせられましたし、世界平和のためだと思って一生懸命任務を遂行していたけど、実は国家や組織自体がインチキだったのではないか・・・と気付いたときの気持ちはすごく共感しました。社会保障のためだとか、経済成長のためだとかなんとか言って、消費税を上げあらゆる形で人から税金をむしり取って何かをしようといういうこと自体が、実は国家という巨大な利権システムの維持のためでしかなかったということに気付いたときのことを思い出し、自分の気持ちと重なる部分がありました。

とはいえ映画のなかの元諜報員のように復讐に走るのも、IMFのように正義の戦いに邁進して永遠にいたちごっこになるのも、どっちもやりたくない。そのどっちでもない道で、本当の平和をつくる方法はあるのかな。あのMI6の美人intelligence officerはどういう道をすすんでいくのか興味深いです。「気付いた」あとの道を歩むいま、ますます自分に正直に生きていこうとの思い深めるさくらであります。

2015.08.26

台風一過@西日本

西日本は台風に襲われましたが、皆さまお住まいの地域は大丈夫でしたか。台風の気圧の影響で、ちょと身体がだるい感じでしたが、そんなときに頂く一杯の美味しい珈琲は至福☆そしてまた、台風一過の青空のさわやかさは格別!!季節は秋に向かっているのを感じます。

昨夜の夕食で、食事の途中でちょっと台所に行って戻ると、お皿から食べかけのハンバーグが忽然と消えていました。犯人は、この人以外考えられません↓

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食べ過ぎのため明らかに太めです(笑)だけどその食いしん坊ぶりがまた愛らしかったり。犬がいる家では必ず発生する“食い逃げ事件”に、ついに私も襲われてしまいました。うう、私のハンバーグ・・・(T_T)一瞬の出来事でした。まったく油断も隙もありません。もう!!!

昨年の徳島県内での犬と猫の“殺処分”数は1600だったとか。いったい命をなんだと思ってるのかと思いますが、そんな傲慢な人間たちだって、いつ何が起きるかわかりません。台風は地球のため息、地震は地球の寝返り、火山は地球の怒り・・・そう考えると、人間の都合によってどうこうできるようなものではないし、地球もまた生命と意思があると感じるのです。私たち人間は地上の支配者なんかではなく、地球にひととき住まわせてもらっている生命体と考えれば、「明日がある」なんて気軽に先送りしている場合ではなく、自分の命をめいっぱい輝かせて、そして生きとし生けるものすべてを大切にして生きなければならないとの思いを新たにします。

「国家」としての日本を愛している人たちの言動をみていると、こういう日本人が大切にしてきた感性と著しく乖離していることについて何とも思わないのかなあ、と不思議でなりません。自然と調和して生きる心や感性があれば、国家という人工的な(しかも実体の曖昧な)ものの“生き残り”が最優先で、そのためには他の何を犠牲にしてもいいのだというような思想にはならないと思うのですが。その種の人たちの“愛国心”は、心で感じるものではなくて、頭のなかで考えるものなのかな。だとしたら、本当に文字通り“忙しい(心を亡くした)”人たちなのでしょう。それで本当に幸せなのかな。自分が幸せであれば、人に犠牲なんて求めないと思うのです。自分が持っていることを忘れてるから、人に心があることが分からなくなってしまったのかもしれません。

納税でも労働でも教育でもなく、「幸せに生きる」というのが、人間の唯一の“義務”なのかなと思う昨今です。

2015.08.23

人の“目利き”術

クーちゃんはウルトラマンのようになって寝てますが↓

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陽射しのまぶしさ強さは夏でも、モイスト感がぐっと軽くなり、空を見上げれば鰯雲。夏恒例のモクモク入道雲をほとんど見かけず→夕立ちもほとんどなく、気候変動と季節の移ろいを感じる今日この頃でございます。

先日、学生さんたちとお会いする機会があり、若いのにしっかりとしたお考えをお持ちで感心しきりでした。そこで「いろんな人を見てきた経験から、“この人はいい人だな”というのは分かるものですか?」と質問されて、ちょと考えたけど、答えはYesです。だいたいはパッと見た瞬間、どんな人か分かるようになりました。どうすれば分かるかというと、これはもう直感の世界なのですが、珍獣猛獣、果てはさまざまな魔物までいる究極の人間動物園な永田町で、サバイバルのため必要に迫られて磨かれた本能的能力なので、きっと誰でも持っているものだと思います。生存本能を脅かされるような危険な場所だと開花は早いというか、人生はドラクエなので、敵が強いところほどレベルアップも早いというか。

「どの政治家がいい人ですか」というのもいまでもよく聞かれますが、私の答えはいつも同じ。谷垣さんと石破さんです(「好きな政治家」となると、これに小泉さんが入ります)。谷垣さんは、こんな恐ろしい魔界にずっといながら、どうしてこんな清らかなままいられるんだろうといつも感動してしまいますし、泥というよりヘドロのなかでなお美しく咲く蓮の花というのはこういう人のことを言うのだと思います。石破さんは、安保密教のお師匠さんであり、広報や選挙など、いろんなお仕事を通じてたくさんのことをいつも優しく教えてくださった恩人でもあります。おふたりの温かいお人柄とすぐれた知性は、いろいろあって荒みかけた私の心を何度も持ち直させてくれましたし、「こんな素晴らしい人がいるなら、もう少しがんばってみよう」と気持ちを奮い立たせてくれたこと数知れずでした。

おふたりの共通点は、誠実さと確固たる自分をお持ちなところかな。これは小泉さんも。だからこそ、周りの環境がどうであろうと、変わらずいられるんだと思います。しかし永田町的にはなぜか評判が良くないですね。なぜかというと、「面倒をみない」から。要するに自分たちにカネを回さない、ということです。派閥の親分としてお金を配らないとか、パー券を買ったり無理な陳情を解決(役所に脅しを入れて言うことをきかせる)とか、自分たちの地元に恩恵を与えるようなことはしないとか。誠実さや知性という、政治家というより人として素晴らしい人は、強欲の論理ハロウィーンランドでは「面倒をみない=自分たちの得になることはしてくれない」という評価になってしまうのです。

有権者にも政治家を選ぶ責任というものがある、というのは正論であり私も心から感じることですが、しかし有権者が「いい政治家」を選ぶためにどういう“目利き”の仕方をすればいいのかというとなかなか難しいというのも痛感します。変な人がうっかり政治家になった場合、天網恢恢疎にして漏らさずというか、まあ2~3回選挙をすればやはり評判が悪くて自然淘汰されていくというのも事実ではあるものの、なかには「なんでこんな人が何回も選挙に通ってくるんだろう?○○何区の有権者はアホちゃうか」と思うような人もいるのですが、実態を多少見てきた人間としてこれは有権者のみを責められない側面があると感じます。というのは、すべての政治家は(普段どんなイヤなやつであっても)地元の有権者の前では「いい人」になるというのを目にしてると、この「仮面」の姿を見抜くのは、その人との多少のふれあい程度では困難であるというのも事実だと思うからです。

人を見抜くのは直感です、などと言うと主権者教育や真面目な政治理論ではない感覚の世界のようですが、実際いかにも嘘くさい笑顔のポスターやご立派そうなことが書いてある名刺なんかだけで、どういう人なのか判断するのは無理ですし、私は絶対やりません。ホームページや選挙ビラなどの文章なども信用できませんから、字面だけでは分からないその人の内面から発している思い、ハートの部分を感じ取ることが特に大切。「テレビに出てるから」「新聞に名前が出ていたから」などと安易に信用しないで、できるだけ(できれば選挙直前ではないとき)実物にふれる機会を持ってもっと動物的直感を駆使すべきだと思います。

自分の経験から言っても、実際に直接接したことのある人でないと、なかなか伝聞だけで人の評価をするのは難しいですし、実際本人と接して「言われてるような人じゃないな」と印象が変わった人というのもたくさんいるので、評判というのも参考程度にとどめておかないと目が曇ってしまいますプロフィールやHPなどに書いてあること、表面的な人当たりの良さなんかは、「こうすれば受けがいいだろう」と“作られた”ものですし、地元の人には「いい人」であってもそれ以外では別人のような人もいますし、評判が良くない人も実際会ってみるといい人だったということもありますし、あまりいろんな人の言うことや“いかにも立派そう”に見える経歴などに惑わされないようにしています。「この人はどういう人なのか」という自分の直感(第一感)は、最終的にはだいたい当たっているものなので。

もちろん例外もあって、たとえば石破さんは最初はビジュアルと独特の話し方にびっくりし、お話の内容が論理的で分かりやすすぎてさらに驚き、第一感は覚えていません(笑)だけど「この人はいったいどういう人なんだろう???」という好奇心が抑えきれず、広報のお仕事でインタビューに伺い、「いい人だなあ」としみじみ実感してそれ以来大好きになりました。でも危険を感じていたらそもそも絶対近付かないので(魔界の鉄則)、きっと直感的に安心していたんだと思います。

2015.08.21

京の都

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さくら、ひさびさに京の都へ上ってまいりました☆

京都はもともと、大好きな街でした。仕事でもプライベートでも何度となく訪れていたのに、一時は「京都」と耳にするのさえ嫌だった。新幹線で通過するときも、ぎゅっと目を閉じて風景さえも目に入らないように身を固くしていたくらい。魔界中の魔界な場所で、あまりにも恐ろしい思いをしたことで、そんなふうに心を閉ざしてしまっていました。

だけどよく考えてみたら、京の都や、そこに住んでいる人たちに嫌な思いをさせられたわけじゃない。そこは「京都」や「京都人」という「全体」にしてはいけなくて、個別具体的に私個人が関わりのあった特定の魔物たちと区別しなければ1200年の都に失礼だし、そんな嫌な思い出にいつまでも捉われて、素敵な場所やおいしいもの、素晴らしい出会いをmissするなんてつまらない。そんな思いを胸に、すこし勇気をだしてひさしぶりに訪ねた京都は、変わらぬ素敵な古都でした。

元気を回復できたから言えることですが、あのまま心身ともに雑巾のようにボロボロになってヒラヒラと漂ってしまう状態であれば、私は世を恨んだのではないかと思います。「世を恨む」と言っても、そんなブラックな状況に居続けてしまったということは、それは自分の選択なのだから結局のところ自分に返ってくる話ではあるのですが、いまは魔界から離れることができて本当に良かったと心の底から思います。

「秘書の仕事なんて、プライドがあったらできない」。そんなふうに言われましたが、私は自分のやっていることにプライドを持っていたいので、そんなふうに卑屈な精神で仕事をするのは嫌でした。人を「使用人」のように扱っているのを見るのも聞くのも嫌だったし、他の“使用人”たちと同じように扱われることは屈辱以外の何物でもありませんでしたし、またそんなふうに扱われていることに甘んじている人たちがいることに驚き、こういうブラックな状況が連綿と続いているのは、ブラックな雇用主だけが悪いのではなく、そんなブラックな雇用形態でもいいと思ってその状況をみずから選び続けている人たちがいるから成立しているのだということも学びました。そんな魔界スタンダードに合わせることで、“奴隷の平和”に絡め取られるくらいなら死んだほうがましだと思った。こんなところで潰されたら一生後悔すると思い、死ぬ気でもがいて前へ進もうとしたことは、自分の人生のdriverになったいま、自由になった喜びとともに、proud of myselfな一歩だったと思っています。

そしていま京都は、再びさくらの大好きな街になりました。暑いし寒いし住みたいとは思わないけど、これからもたびたび訪れる場所であり続けるでしょう。

ちなみに京都でのさくら一等お気に入りの場所は、上賀茂神社。機会あるごとに訪れています。「下鴨神社はいいよ」という人の方が多いし、実はこの後お伊勢参りにも行ってきたのですが、内宮はさすがのご神気でしたが、さくらは断然上賀茂神社が好きだと改めて確認しました。「あそこに行くといい(ドラクエでいう“回復の泉”)」という場所も人それぞれで、皆それぞれの好みと波長に合った場所を探せばいいと思います。上賀茂神社は雷(いかづち)の神様がおられて(ご案内してくださった神主さんが「神さん」とおっしゃるのが柔かくていいなあと思いました)、人もそんなに多くなくて、緑があって清流が流れていて、子どもたちが遊んでいて、なんだか心が清められてすごく安らぐのです。もう少し暑さが和らいだら、もっとゆっくり過ごして、そして鴨川散策もしようと企んでいます☆

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2015.08.17

祭りのあと

阿波踊りが終わると、急速に秋の気配の徳島です。朝夕は涼しく、やかましい蝉の声も収束し、虫の音がかわいらしく響くようになりました。しかし蝉の地中で過ごす時間の長さと、地上で過ごす時間の短さを考えると「うるさい」と言ってはかわいそうだと思い、「元気に鳴きなはれ」と、精一杯生命を燃焼させて生きる大切さを教わる夏でありました。

こちらは秘境・祖谷の「琵琶の滝」。平家が逃れてきて、京の都を思いながら琵琶をかき鳴らしたという伝説があるとか。一時は栄華を誇っても、政治体制が変わればそれまでの「権力者とそれにあずかる人々」は一転追われる身となり、昨日まで「正義」だったことも全否定されて覆される。なんとはかなきことでしょう。この世に「絶対の正義」など存在しない。琵琶の音は聞こえませんでしたが、世は変遷すれど、この滝はずっと変わらずにいて、またこれからも変わらずにいるのだと思うと、「これが正しい」とか「あれが間違っている」ということにあまり捉われることはないのでしょう。

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あしたはひさびさに京の都へまいります!

2015.08.15

戦後70年 No More Sacrifices.

今日は終戦記念日。70年前のこの日、日本が「これ以上やっても勝てない」と観念して、敗戦という事実をようやく受け入れた日。

その結論を、どうしてもっと早くに出せなかったんだろう。

石破ゼミで安保を学んでいたとき、教授のおすすめで『昭和17年夏の敗戦』という本があるのを知った。当時30代の若手官僚、研究者に、この戦争のシミュレーションを命じられ、彼らが出した結論は「日本がどんなに頑張っても勝てない」。物量、補給、すべてにおいて分析した結果、導き出した結論。しかし軍部はそれを無視した。“机上の空論”として。「戦争は、やってみなければ分からない」。図上演習は、都合の悪いことは起こらない図上演習と、どっちが机上の空論だったんだろう。

米国留学中、アジア人のよき友人に恵まれた。どんな話をしていてそんな話になったのか忘れたけど、マレーシア出身の友人がある日私に言ったことを覚えている。「日本軍にひどいことをされたという人たちは東南アジアには確かにたくさんいるし、親戚のなかに腕を斬られて失った人がいていまもそのことを話すと泣いている。だけどそれは、僕の腕じゃない」。戦争を語るときに、国という主体と個人との関係を考えると、日本人だからといってどんなに責められても、私個人としてやったことではないことを、私が日本を代表してその人に謝ることはできない。ただできることは、そういうことがあったということを心に留めること、つらい思いをした人たちの悲しみ苦しみに思いを致すこと。だけど国と個人を重ねて責任を論じられると、戦後生まれとしてはどうしようもなくて。「Ai、君が腕を斬ったわけではないし、国がやったことの責任を君が感じる必要はないんだよ」と言った、国際感覚豊かな彼の優しさと、また国というものに対する華僑のドライなスタンスが強く印象に残っている。

今日出された戦後70年の安倍内閣総理大臣談話(閣議決定)を読んでみて、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代のこどもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」という一行は、かなり思い入れが深いのだろう。村山談話の「国策を誤り」という“抽象的な表現”を議論したうえで作成されたものだというけど、その続きの「戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ」という一文については、さほど思いが至ってないんじゃないかという気持ちがどうしても消えない。

今回の談話の歴史認識は、日本は「進むべき進路を誤り」とあるけど、その前段を読むと欧米諸国によるブロック経済化が進み、孤立化した日本が戦争に進んで行って、「国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった」とある。その国際情勢の変化を読んで動くのが政治であって、その選択を間違い、そして「国内の政治システム」は政党政治が機能せず軍部が台頭してきて・・・という感じで、日本のどこに「戦争に進む」という意思が醸成され、決断実行に至ったのかはよく分からない。国際情勢の変化に対応できなかったのも、戦争に進むしかなかったのも、すべては「空気」なんですとハッキリ言ってくれたほうがよほど現代に生きる私たちにとって実感がある“意思決定”なんじゃないかと思うくらい。

「尊い犠牲」と安倍総理が言うときに嫌な気持ちになるのは、国のために命を捧げるのは素晴らしいことだという前提をどうしても感じてしまうから。戦後60年の「小泉談話」は、「戦争によって心ならずも命を落とされた多くの方々の尊い犠牲の上にあることに思いを致し」とある。「心ならずも」は、小泉さんが戦争を語るとき、いつもおっしゃっていた。もう国民に二度とそんな思いをさせてはならない。そんな決意をいつも感じていた。だから「尊い犠牲」とその後に続いても、私は小泉さんの心の奥にある思い、そして日本国の運命を左右する自分の決断に対する強い責任感が伝わってきた。「自分の判断の誤りが、国民を存亡の危機に陥れる」という恐怖に近い責任感、一国の運命を背負う内閣総理大臣の重圧を教えてくれたのは小泉さんだったし、イラクに自衛隊を派遣するという、自衛官に命を懸けさせるというミッションを命令する責任の重さを教えてくれたのも石破さんだった。

戦争の体験談はどの人のことばも心に重く響くものがあるけど、私は美智子皇后陛下が語るおことばからはいつも、日本国民はもとより世界の人々すべてを包み込む、人間というものに対する大きくてあたたかな慈愛を感じて心を揺さぶられる。「戦後の日本は、小学生の子どもにもさまざまな姿を見せ、少なからぬ感情の試練を受けました」と語られた、昨年のお誕生日の会見(文書回答)。御自身の体験からの深い洞察、そして「でんでん虫のかなしみ」と弟橘姫のお話、悲しみを背負いながらも生きていることの喜びと希望を静かに語られたインドでのご講演は何度読み返しても、その時々の自分の学びに重なって、魂に響く。誰を責めるでもなく、そして想像もつかないような艱難を乗り越えてこられた美智子さまの、その歩みのなかで培ってこられたつよさとやさしさと深い愛を、私も少しでも持つことができるように。そしてこのことばを自分自身で実行できるように、争いや苦しみの芽となるものを摘み、そしてもう自らを犠牲にしたりさせたりすることなく、自由に幸せに生きていくことで平和をつくり出していくことができますように。

「世界のいさかいの多くが,何らかの報復という形をとってくり返し行われて来た中で,わが国の遺族会が,一貫して平和で戦争のない世界を願って活動を続けて来たことを尊く思っています。遺族の人たちの,自らの辛い体験を通して生まれた悲願を成就させるためにも,今,平和の恩恵に与っている私たち皆が,絶えず平和を志向し,国内外を問わず,争いや苦しみの芽となるものを摘み続ける努力を積み重ねていくことが大切ではないかと考えています。」(平成26年お誕生日に際して)

☆カトリックでは、今日は聖母被昇天の日です

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2015.08.14

有朋自遠方来 不亦楽乎

朋あり遠方より来る、また楽しからずや。

今週は東京から大切な友人が、徳島に遊びに来てくれていました!ずっと会いたかった人なので、大喜びでご案内したのですが、本当に楽しくて充実した旅でした(*´▽`*)

徳島市内はまず眉山にお連れして市内を一望し、阿波踊り前夜祭を観て鳴門の大塚美術館と渦潮を見て、祖谷でかずら橋を渡り温泉につかって、踊りにも繰り出して、そのあいだに海の幸やすだちアイスなどを楽しんでいるうちに、だんだん丸くなっていきましたが(笑)大好きで大事な友人と美味しく楽しく語り合うことが人生でいちばんの幸せというのは、先人の言う通り、いやそれ以上だと思っているさくらです☆

「市内の子」(←徳島県内で使われる、山の暮らしの大変さを分かっていないのんきさを暗に批判する呼称)であるさくらは、祖谷(いや)がいちばん楽しく衝撃的な体験でした。日本三大秘境のひとつで、平家が逃れてきて隠れ住んでいたという、びっくりするくらいの山奥なのですが、こんなところが徳島にあったとは。。。私、徳島の奥深さをなめてました。反省しています。

秘境レポはまたご紹介するとして、海あり山ありの徳島で自然にふれていると、なんてこの地球は美しいんだろうとしみじみ感動します。水平線を眺めていると、ああ地球は丸いんだなあと分かるし、鳴門の渦潮や大歩危(「おおぼけ」と読みます)の清流を見ていると、流れがぶつかって渦ができるのが面白くて、何も力を入れずに自然の流れに任せているだけでいいんだなと思ったり。眉山でも「空に近い」と喜んでいたのに、天空の祖谷では宿が標高650mくらいで、モノレールで1350mまで登って、その眺めはoverwhelmingで。まだまだ世界にはこんなに美しいところがある。そして知らないこともたくさんあり、見てないものもたくさんある。天に帰るその瞬間まで、この世でたくさん体験して、そして感動しまくっていたい。そんなふうに強く感じた旅でした。

市内は阿波踊り真っ盛りですが、こちらはさくらの車窓より:蓮の花が美しく咲いています。よく「泥の中であっても美しく咲く」たとえに用いられる蓮の花ですが、実際レンコン畑(あまりロマンティックな響きではないですが)は結構な悪臭がするので、こんなに白く美しい花が咲くのは不思議な気がします。

Lotus_flowers_2


2015.08.09

Peacefully

暦的には立秋を過ぎましたので、残暑お見舞い申し上げます☆皆さま、夏を楽しんでおられますでしょうか。

さくらは昨今やたら「カレーが食べたい」という日が多く、一週間に1~2回くらいはお昼にカレーを選んでいます。お野菜たっぷりのカレーや、すぐおなかを壊してしまうけど病みつきになるインドカレー、チーズィな焼きカレー、カレーオムライス等々、カレーひとつとってもこのバラエティの豊富さに日本に暮らす幸せを感じずにいられないのですが、徳島では特に鳴門のCafe de Epicesは気に入って、もう何度も訪れています。キーマカレーや焼きトマトのバターチキンも素晴らしく、季節限定のこの賀茂茄子カレーも思わず笑顔になる美味しさでした☆

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万願寺唐辛子たっぷりのルーとごはんの間に、賀茂茄子さんが挟まっているのが見えますでしょうか。

カレーもコーヒーもスウィーツも素晴らしいのですが、なにより海を眺めながらゆっくりごはんを頂く幸せといったらこのうえない。

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お天気のいい日は、こんな感じで穏やかな海が窓から望めます。本当に気持ちがいいカフェですし、「玉ねぎ休暇」に入ってしまわれる前に、再訪しなければです☆

さて今日は長崎の平和祈念日。広島は平和「記念」公園、長崎は平和「祈念」公園なのですよね。記憶にとどめることも、お祈りも、両方大切だと思うので、こうして書き分けをきちんとすることで、広島と長崎の体験を“被爆”と一緒くたにするのではなく、ウランとプルトニウムの違う型の爆弾が落とされたというだけでなく、そこに住まう方々の、そして受け継いでこられた方々の固有の体験、思いのひとつひとつをそれぞれ大切にしなければとの思いを深くしています。

平和とは、自分の心の深い奥のところで静かに感じるものだと思っているので、やかましい喧噪のなかで「平和」を叫んだりするのは個人的にはあまり好きではありません。安保法案を阻止するためや、原発反対のデモが行われていても、私はどうしてもそれに加わりたいとは思わない。なぜかというと、「反対」と叫びアピールすることの意義を否定するわけではありませんが、「声を上げる」というのはああいう形(プロテスト)で“表現”されるのがいちばんいいのだろうかと考えてしまうのです。

さくらは一応カトリックの信仰を持っているので(全然まじめな信者ではなく、実態はサンデークリスチャンな感じです)、個人的な体験から言うと、プロテスタントの方々にカトリックというだけで“糾弾”されることが結構ありました。プロテスタントというのは、名は体を表すというとおり、カトリックの堕落ぶりに(これもまた事実ですが)文字通りprotestして生まれたものなので、「なんでそんな間違った信仰を選んでいるんだ」と、カトリックに対しての怒りのようなものをぶつけてこられるのです。恐らくそんなふうに私に言った方々は、非常にまじめで、信仰というものを私なんかよりもずっと大切にしておられるがゆえに、イエスさまの教えというものを何より聖書に求め、ずっと真剣に読み込んでおられると思うのですが、しかしそんなこと言われてもなあ・・・と一カトリック信者としては困惑するばかりでした。

私自身はたまたま神さまのお導きによりカトリックを選んだわけですが、仏教やプロテスタントになっていた可能性だって大いにありました。だけどどちらも違和感があったり、いまひとつ心惹かれなかった。私にとっては良き友人や神父様との出会いに恵まれたからなので、カトリックがいちばんいいからこれを選んでいるのではなく、私にとってはいちばんしっくりくるからという素朴な理由なので、仏教でもプロテスタントでも、それぞれ好みに合った宗教を選べばいい(無宗教から無神論まで含めて)と思っています。そのために世界中にこれだけ数多の宗教宗派があると思っているので、お互いに信じる信念(宗教だって「神さまを信じる」という意志のひとつだと思います)をぶつけあってしまうと争いになるだけ。宗教戦争を起こすエネルギーを持った宗派は信仰に凄味があるなあと変な感心の仕方をする一方、十字軍を遠征させたり各国にミッショナリーを送り込んだ宗派を信じているわりには、まったく宣教の意思がない自分との違いに驚いたものでした。

もうひとつ感じるのは、何かにprotestしたり、抵抗したり反発したりするというのは、結局のところそのprotestしているそのものの存在を前提としているため、その存在を全否定ながらもその存在なしには成立しないという矛盾がしっくりこないのです。さらにその“全力で阻止したい何か”を倒したりなくしたりしたあとに、いったい何があるんだろう?という疑問に対する答えはあまり明らかにはされない。そこは恐らくそれぞれの思いは違うのだと思いますし、あるいはそもそも抵抗したり反対したりしているだけで何かをやったような気になっている人たちの姿に違和感を禁じ得ないというのが正直なところです。

自民党に勤めていたというだけで、いまでも自民党や安倍政権に対する怒りや不満をぶつけられることも多く、「私にそんなこと言われても・・・」と内心かなり困惑してしまいます。そして「反対しなければ!!」とおっしゃる方々の気持ちはよく分かるけど、デモや署名をすることで本当に何かが変わることになるんだろうかという気持ちが消えない。私の感覚では、プロテスト系のデモは結構暴力的というか、大声で叫んだり、その方々の“怒り”を感じ取ってしまうため心乱されてしまい、平和とは程遠い気持ちにさせられるものなのです。

それぞれの人たちは純粋に平和を願って行動されていると思いますし、その思いは尊い。だけどあんまり不平不満を声高に叫ばれると、怒りの感情をぶつけられると、私はつらい。だからといって、その叫んでおられる方々と共通する思いがないわけではないのです。

平和を実現するために、なにかもっとほかにいい方法はないんだろうか。そんんな気持ちが強く大きくなっている昨今です。

2015.08.06

ピースナイター

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今日は原爆記念日。広島は、ピースナイター。

平和を願う白い鳩。カープ全員が「HIROSHIMA」を背負い、背番号も86。アメリカ人のマートンも、試合前に平和祈念公園を訪れたという。

私はまだ広島に行ったことがない。昨秋、初めて長崎の原爆記念館を訪れた。ずっとお会いしたかった、浦上教会の被爆のマリアさまにようやくこのときお目にかかることができた。その瞬間といまも同じ姿。すべてを受けとめたマリアさまの哀しみが、現在を生きる私たちの目に、胸に突き刺さる。

映画「ターミネーター」は、未来を変えるために、過去のキーパーソンを抹殺するために刺客が送り込まれる。もしいま私たちがそんなことができるとしたら、原爆を開発した科学者の元へ人を送り込み、そんな恐ろしい、人類がコントロールできる能力を超えた技術開発を、そのときに「なかったこと」にできたらいいのにと思う。

だけどこんなセリフもあった。“The future is not set.”いまこの瞬間の私たちの選択が、生きざまが、未来を創っていく。いまこの瞬間により良き未来を創造するための行動を積み重ねていけば、人類の、地球の未来は全然違ってくる。その力、明日を創造できる力を一人ひとりが信じて行動できるかどうかに、この星の未来はかかっている。

さくらは長年阪神ファンではあるけど、いつもならめったにこんなに打たないからうれしい試合であっても、今日は広島に勝ってもらいたいな。広島出身の福原は、私より年が下とは思えない昔からのオッサン顏だけど、最近長かった後ろ髪を切って、あのもっさり感がなくなってちょと寂しかったり。同じく広島出身の上本の怪我もすごく心配。早く良くなりますようにと願いつつ、アニキや新井のお兄ちゃんをはじめ、広島から来てくれた素晴らしい人材のことを思えば、阪神ファンは広島に足を向けて眠れないと思う。

戦時中は、甲子園球場も例にもれず、球場の銀傘部分を“供出”させられたという。よく分からない「お国」(全体)のために、どれだけの犠牲が払われたんだろう。

過ちは二度と繰り返さない。そう言うけど、その「主語」は誰なの?“We will never ever make the same mistake again. ”なの?それとも“this horrible mistake would never ever be happened again.”とするの?“I”はどこに含まれているの?

私は愛も平和も、意志だと思う。毎日のその意志にあふれた積み重ねの行動が、未来を創っていくんだと思っている。

今日だけじゃなくて、毎日がピースナイターだと思って生きていきたい。こんなふうに無事に元気でいられるのもミラクルであり、未来の私たちの幸せを願って自分を“犠牲”にしてくれた人たちがいるから。

その人たちの思いにこたえるためにも、私たちは幸せでいなければいけないと思うのです。

2015.08.05

スナフキンと平和

夏真っ盛りで、毎日暑いですね!お土産に頂いた淡路の「たこせんべい」が美味しいです(暑さとはまったく関係ありませんが)。

8月になり、より戦後70年を意識するときですね。戦争なんかに誰だって行きたくありませんし、また行ってもらいたくもありません。「平和」を求めるということに、いろんな表現の仕方があると思いますが、戦争に行かないのは身勝手なことなのかと言うなら、戦争を決めるほうだって身勝手だと思うのですが。

スナフキンによると、義務とは「したくないことをすること」ですが、

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もし本当に戦争になったとしたら、「やだ」と言って行かない人が多数を占めれば、戦争は成立しないのではないかなあと思ったりしています。「戦争が嫌だ」という感情も、もっと突き詰めて考えれば、私は何より自由がなくなるのが嫌ですね。人の命を奪うという目に見える物理的なことはもちろんのことですが、人の精神の自由を“殺す”ことも同じことだと思います。

戦争にしても納税にしても、「そんなのいやだ」と言って従わない人が多くて、それを強制しようとしても権力側のマンパワーが足りないくらいの人数になると、もうどうしようもなくなってしまうものなんだろうと思います。だけど「みんなやってるのにあいつはやってない」と言う人がいると、そういう人たちが“全体のために”自発的に協力することになり、逆らわずに我慢して生きたほうが無難だと思う人たちが多ければ、自由を求める人は「わがまま」となり、全体で監視し合う息苦しい社会であり続けてしまう。そうやって戦争に“加担”した人たちだって、たくさんいたんだと思います。

「平和」と口にしながら、それぞれの人たちはどんなふうに定義しているんだろう。私の平和は、自由であることがまず大前提かな。お互いの自由と尊厳の尊重が、ベースになるものなんだろうと思っています。正解(たったひとつ)なんてなくて、きっといろんな答えがあると思うので、今月はより一層オープンな心でいろんな考え方にふれたいと思っています。

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2015.08.02

“勉強”の変化

8月に入り、おひさまもギラギラで夏本番ですね☆あまりの暑さに、気が付けば冷蔵庫にはアイスが自然増殖しており(→目に入るといろいろ試したくなる人)、出歩いた先ではソフトクリームを食べている率が高いです。私のおすすめは久保田のアイスキャンデーで(徳島ではなく高知のものですが、合区を意識しているわけではありません)、個人的には苺とやまももがお気に入り!東京ではナチュラルローソンで買い求めておりましたので、もしよかったらぜひおためしください^^

さて世の中すべては勉強の連続でありまして、永田町にいたときの勉強というのは、コンパクトな「ご説明」を聞く機会にあふれているので、それを聞くことでいろんなことが分かったような気になるし、“概要”を理解することで、いろんな話に入っていきやすいというのは確かで、それは私の財産になっています。だけどそれは話の“上澄み”の理解でしかなく、実感として分かったということではないということが常に心のどこかにあって、そのなかでもとりわけずっと心に引っかかっていたのが障害者の自立支援の問題でした。最近は「障がい者」と表記するようですが、英語だとchallengedなどの言い方がありますし、漢字とひらがな併用の表記がさくら的にはいまいちしっくりこないので、ここでは「ハンディキャップを持っている方々」と書きますが、その方々の生活支援というのは、いろんな切実な訴えのなかで、とりわけ心にズシンと来るものでした。

10年くらい前に、障害者自立支援法が弱者切り捨てだという批判を受けて問題になったことがありました。そのときに障害者3団体の方々からお話を伺う機会があったのですが、保護者の方々の「自分たちがいなくなったら、この子はどうなるんだろう」というご心配は本当に胸を打つものでした。授産施設なのでの“作業”は労働ではなくて、微々たる賃金がもらえるだけで、むしろ逆に“お世話になっている”という感じ。「行政の補助がなくなったら困る」という親御さんたちの訴えは、厚かましい補助金タカリ勢力とは一線を画するどころか次元が違って、本当に心配でたまらないだろうな・・・と思う一方で、しかし補助がなくなったら生きていけない世の中そのものが何とかならないのか、とも強く感じてしまうのです。

ハンディキャップを持つ人たちが自立できる稼ぎを得られるために、と願って始まったビジネスとしては、スワンベーカリーが先駆けとなり、全国に広がっていきましたが、先日免許センターで売られていたこちらのパンも、うちのクーちゃんによく似てるのと、一生懸命頑張っている人たちを応援したいと思って買い求めたもの。素朴なチョコレートパンでしたが、なんともかわいらしいのです。共食いを避けるため?クーちゃんにはあげませんでしたが(笑)

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そんな思いを心に持ちつつ、昨日はCreerという徳島市内のNPO法人が主催している吉本新喜劇のチャリティ公演を見に行ってきました(徳島新聞の記事)。新喜劇のいつものギャグのなかに、徳島産のお野菜を使ったお弁当やお菓子を販売している事業内容と、ハンディキャップを持つ人たちが自立して生きていくために頑張っている姿が描かれて、大笑いしながらも心温まる内容でしたが、「それでも1か月5万円」というお給料には、なかなか現実は厳しいものなんだな・・・ということも考えさせられました。

また先日は、理容師の資格がないとできないので、美容院ではできないシェービング(顔や首すじ)をやってもらおうと、調べてみると徳島市内に気になるサロンを見つけて行ってきました。耳の聞こえないお母さんの理容室でその娘さんが女性向けシェービングをやっている、というのでお願いしてみたところ、リンパマッサージはコリコリでちょと痛かったですが、丁寧に施術してくれてなかなか良かったです。次回もここでと思っていますし、感じのいいサロンでしたが、本来ならもうちょっとファンシーな雰囲気が私好みですし(サスペンスドラマがBGMというのは正直やや落ち着きませんでした・笑)、値段設定が同じくらいであれば、別の少しこじゃれたところでやってもらったほうがいいのかもしれません。だけど決して安い同情心からではなく、難聴である彼女が私の大好きなF・B・Eyeというドラマ(聴導犬リーが耳の聞こえないスーを助けてふたりで大活躍するお話)のスーと同じしゃべり方をしていたこと、「読唇術なんて現代忍者じゃないか」と尊敬してしまうこと、そして彼女の優しい人柄にひかれたということ。感じの良さというのは、いろんなことを上回るものだと思うのです。

いろんな形で税金で吸い上げて行政が使い道を決め、広くいろんなところに補助をするというのは、良く使われてくれればそれに越したことはないのですが、「あんなもののために使われているとは」と思うようなことが多く、自分が応援したいと思うところに重点的に使ってもらいたいと思うのですが、こういう形で「ここぞ」と自分が思うところを見つけてお金を出すのは、なんとなく取られてどこかで使われてしまう納税とも、なんとなく消費しているのとも違って、お金を出すことにとても満足感と納得感があります。いろいろ迷っていた初代さくら号発注についても、「大事に乗りたい」と思う車にめぐりあい、そして「この会社の作る車にお金を出したい」ということが大きな選定基準になりました。エコカー減税がきくというのも確かにポイントですが、それがなかったらこんなに取られるのかということにも改めて驚きを禁じ得ません(-_-)

これまでは知識として広く薄く知っていたことでも、もっと深く、そして現場を見てみなければ本当の意味で理解することには至らないし、あのまま永田町にいたら薄っぺらい人間のままで終わってしまうところだったと痛感しています。無駄な補助金バラマキは絶対反対ですが、世の中には本当に補助を必要とするところがあるということを否定するものではありませんし、むしろどういう形で役に立てる支援ができるのかを追求してみたい。行政の補助がなくなったら困ってしまう人たちは、一生にわたってハンディを抱えて生きている。一瞬勉強したくらいで分かったような気になったり、予算が付けられたことで何かをしたような気になるのではなく、本当に彼らが自立するためにはどういう支援のあり方が望ましいのか、また自分にできることは何かということを、知識としてだけでなく実態を継続的に見て知ることで、そのうえでともに寄り添っていくにはどうしたらいいかを考えて、行動に結びつけていきたいと思っています。

このところいろいろdistractedな状態でしたが、人生のプライオリティを間違えることなく、本当に大事なことに集中してまいります☆

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