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2015年4月の記事

2015.04.30

3歳のときは・・・

昨日は真理子さんのお食事会へ。ヴィーガンのお料理。真理子さんが主宰するキネクラブのフィロソフィーは“Nature is Perfect”。トマト、ナス科を除く(ジャガイモやパプリカも×)という縛りがありながら、ここまで美味しいのは素晴らしい。なんか毎回進化しているような感じです。春野菜&山菜パスタからデザートのシトラスパイまで美味しくいただきました!

真理子さんとのおしゃべりもinspiringで、お孫さん(がいるようにとても見えないのですが)Sちゃん(7歳)とT君(4歳)と遊んで楽しいひとときを過ごしました。ごはんを食べる前に、T君がひとこと。

「あいちゃんは、3歳のとき何して遊んでたの?」

いきなり聞かれて、「えーー、何だっただろう??・・・お人形さんと積み木かなあ?」と答えたけど、帰り道にさらに思い出したことは。首が取れそうになるまで気に入って持ち歩いてたスヌーピーのぬいぐるみが最初の親友だったと思う。それから妹も受け継いだ50音の積み木(あひるの「あ」、いぬの「い」と絵で覚えるもの)、世界名作シリーズの絵本とお歌のレコード(「ハンバーグのうた」が一等お気に入り)、それからちょっと後かもしれないけど、女の子なのになぜか消防車。これは消防士さんと犬が出動する絵本が大好きだったから、買ってくれたんだろうと思う。「こんどそれ持って来て」と言うT君のために、実家に帰ったら探してみよう。母はなんでも取ってあるから、もしかしたらいまも納戸のどこかにあるかもしれない。

使い方がいつまでもよく分からなかったFacebookですが、自分のアンテナに引っかからなくても、似たような好みを持つ友達がシェアしてくれる投稿により、いろんな感動がもたらされる恩恵があるということが最近分かってきました(今ごろ気付いたんかと言う感じですが)。

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たとえばこの救助犬の夢の丞君。昨年の広島土砂災害でも活躍していたのを覚えておられる方もいらっしゃるでしょうか。こんどはネパールに出動したこの夢の丞君は、殺処分寸前に救出されて、救助犬になったという数奇な運命。人間にひどいことされたのに、こんどは人間を助ける側にまわるなんて・・・(涙)ネパールの地震の被害もすごいことになっていて心配ですが、日本でも桜島が噴火したり、なんだか地球が動いているような感じですね。

それからこちらも素敵だった。これはどんな文章も映像にかなわない。私は「BONES」も大好きですが(シーズン9の終わり方衝撃すぎ!!!これからどうなるんだろう)、人間こうして骨だけになってみると、普段まとっている肉はお洋服と同じで、肌の色や年齢、性別なんかをつい見てしまうけど、そんな目に見えるものにとらわれるのではなくて、それぞれの人の本当の姿、魂を見る・・・というより「感じる」ことの方が大事ですよね。まさにLove Has No Label!!

子どもたちを見ていると、自由でのびのびとしていて、偏見なんかもまったくない。これが“自然”。大人になると、頭で考えすぎてしまって目が曇ったり、動けなくなったりするけど、T君に「3歳のころに戻ってみたら?」と言われたような気がしました。魂の本質は、誰もがあの頃と変わらず純粋なはずですものね。とらわれのない子どものような心と、大人の優しさを持ち合わせたら、バランスがいい感じです。

2015.04.28

“愛”の先進国に!

統一地方選の喧噪もひと段落して、東京はぽかぽか陽気です☆

毎回投票所は近くの幼稚園なのですが、本人確認をしないのが不安でたまりません。名前読み上げるだけで、別に顔写真登録してるわけじゃないのに、そんなんでええんかなあと。投票用紙に名前を書いて投票箱に入れるときは、いつも総裁選のリハーサルを思い出します。総裁選では国会議員は名刺を渡します。間違いなく議員本人が投票を行っているにもかかわらず、なんか一応チェック感はあった気がします。私としては、なにか身分証明書でも見せたい気持ちがいつもあるのですが・・・めんどくさいんでしょうか。だけどあんなにたくさん人が配置されているなら、それくらいやってもいいような気がするのですが。

昨日たまたまニュースで見たのですが、「筆談ホステス」だった北区の女性区議の選挙運動はちょっと感動的でした。区議選はビラを配れないので自分のことをできるだけ書いた名刺を渡して、そして演説や対話をするのにハンディがあるので、タブレットに書いて一生懸命伝えている姿は、目の前にいる人に自分の思いを伝えよう、そして目の前の人のことばを受け取ろうという真剣さに満ちていて、有権者とのコミュニケーションのあり方を考えさせられました。北区議会は、音声読み上げソフトを導入を検討するとのことで安心しました。「人の心が聴こえる街に。」というスローガンというかキャッチコピーは素敵です。ぜひぜひたくさんの思いを発信していっていただきたいですし、ご活躍されることをお祈りしています☆

目黒区にも長く住んだのですが、全国地方公務員のうち最も給与が高いのがこの目黒区なのだとか。だからというわけじゃないのですが、来月引っ越しすることになっていて、次はどこに住むかかなり悩んでいます。都内なら、最近同性婚を認めることにした渋谷区なんかは思想的に良さそうな感じがします。リベラルでオープン、多様性があるところがいいのですが、地方暮らしもよさそうだし・・・と、まだ決めかねています。直感が降りてくるのをもう少し待ちたいと思います。

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東京レインボープライド
で掲げられた「『愛』の先進国になろう。」がとても気に入っています(写真は東ちづるさんのFacebookからお借りしました)。私はストレートですし、しかもよく考えると同性愛を認めないカトリックなのですが、留学時代に出会った友人のひとりがゲイで、私にいろんなことを教えてくれた大事な友達でもあることもあり、gay rightsを支持しています。

私は教会にもぜひ認めてもらいたいと思っているのですが、神様がおつくりになられたものすべてが完璧であるならば、すべての人は神の子ではないのでしょうか。さっき私は何気なく自分のことを「ストレート」と書きましたが、それもよく考えると「ストレートじゃない存在がある」という語感になるような気がします。彼らは別に異常でもなんでもなく、そういうふうに生まれてきているだけで、人種や性別、生まれたところなどと同じように、「自分ではどうしようもないこと」を理由に差別を受けるというのは理不尽ですし、あらゆる差別はこの世からなくなってほしいと強く願っています。

しかも東京オリンピックがあるというのに、この東京のバリアフリー度の低さで、いったいどうやって間に合わせるのか分かりませんが、無駄なバラマキなんかに使うお金があるなら、「“愛”の先進国」になるための公共事業に使ってほしいです。もちろん私たち住民の意識も進んでいかなければです☆

2015.04.25

かくかくしかじか

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かくかくしかじか』読了。お話も面白くて、とても心に響いたのですが、「これ読みなさい」と言って買ってくれた先輩の思いと優しさが分かって、その感動の涙の方がずっとずっと大きくて・・・(T_T)(T_T)(T_T)

このマンガは作者の東村アキコさんが漫画家になるまでのストーリーですが、誰の心にも人生のターニングポイントとなる出来事、出会いがあると思います。現在に至るまでの道のりを振り返ってみても、いろいろな人たちが私を育ててくれたからこそ今の自分があるんだなあ・・・としみじみと感謝の思いが湧いてきます。

厳しい“先生”に「描け!!!!!」と文字通り蹴飛ばされる勢いで怒られまくるのを共感しながら読んでいたのですが、それはまさに私が機関紙記者で原稿を書き始めたとき、全然書けなくて泣きながら書いたことなんかを思い出してくれました。当時のS編集長は本当に厳しかった。だけどできなくても、できるまで夜遅くまで忍耐強く原稿が上がるのを待っていてくれた。少しできるようになってきたとき、私の成長を考えて仕事を与えてくれた。大きなミスをしたとき、一緒に謝りに行ってくれて、ちゃんと部下を守る人だった。数々の素晴らしい思い出がありますが、まさに笑いあり涙ありで、あのときの同僚たちも楽しい仲間ばかりで、本当に充実した5年半でした。私のいまがあるのは、あの新聞局での楽しい日々があったから。間違いなく、S編集長は私の人生の恩人のひとりです。

それから「彼女は文章が書けるから」と新聞局に引っ張ってくれたのも、のちのK編集長でしたし、話は長いけどいろいろ教えてくださった有難い存在でした。しかもこのマンガ好きの先輩との出会いも、ご葬儀のお手伝いで、人がこわかった私が「行きたくない(涙)」とごねてたら、「いいからとにかく行きなさい!!!」とS編集長に無理やり送り出されて、不安でたまらない思いで配置につくと、この優しい先輩とたまたま受付でご一緒になり、なんか「あそこのパンがおいしい」とか食べ物の話になって、すごく楽しくていまに続いている。帰ってきた私に、「どうやった?」と心配そうにたずねてくれたS編集長に、「なんか思ってたより楽しくできました」とか報告したような記憶があります。マンガのなかの“先生”ほどではなかったですが、結構スパルタでした(笑)でも本当に楽しかった。心より熱く感謝しています☆

自分ひとりの力だけでは何もできないし、いまの自分があるのも本当にいろんな人たちがチャンスを与えてくれて、できるようになるまで見守ってくれて、できるようになったら喜んでくれて・・・と、温かく支えてくれた人たちがいるからこそ。生まれてきたのは両親からですが、人生ではこうしてたくさんの人たちの思いやり優しさのうちに育てられ、お師匠さんに厳しく温かいご指導を受け、いろんな経験をしながら人のなかで磨かれていく。変な人たちのなかにいて気が狂いそうになったこと数多ありですが、それでもこうして廃人にならずに済み、「人生はそう悪いものではなく、この世は悪い人たちばかりじゃない」と心の底から信じられるのは、そんな素晴らしい人たちに出会えたから。一人ひとりのお顔や思い出を思い出していくと、それだけで心が温かくなりますし、感謝の思いでいっぱいです。

気が付けばすっかり季節も移ろい、気温もぐんぐん上がってきて、これくらいだと私の体感的には初夏なので、既に半袖です。春があったのかなかったのかという感じでしたが、冬は本当に寒くてあんなに体調も良くなかったのに、いまこうして心身ともに元気を取り戻して再び歩き出している。私をいつも支えてくれている大好きで大事な人たちのおかげですし、そして過去からの支えもこんな不思議な形でもたらされて。ご恩ある方々へのいくら感謝してもしきれないくらいの思いを、書くことでお返ししていけたらと思っています☆

Thanks for everything!!!

2015.04.24

里山と選挙運動

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緑のなかに山桜のほのかなピンクが美しい、とある場所を訪ねてきました。里山感あふれる、とっても素敵なところですが、ここも東京都内です。ちょっと都心を離れると、東京にもこんな自然豊かな場所があり、そして山を下りるとそこは全国の地方都市と同じ風景という、東京都という住所と感覚が一致しない、なんだか一体いまどこにいるのかわからないような感じになります。

とはいえやはり自然にふれると、都心の異様さに改めて気付き、人の多い環境での疲れが洗い流されます。統一地方選のやかましい選挙カーも来ない、のんびりと時間が流れる隠れ家カフェでの楽しいおしゃべりは、たくさん新しいことを教わり、また考えるヒントを頂いた楽しいひとときでした。ご案内くださったSご夫妻、本当にありがとうございました☆

「里山」は手つかずの自然のことを指すのではなく、人の手によってきれいに保たれている場所のことであり、このあたりも古くからある民家の周りには自然の恵みにあふれていましたが、お庭の手入れも行き届いていている一方、地域の草取り当番のような義務もあったり、人の手入れがあってこそのこの風景なんだなあと感動します。静かな暮らしのなかにも、そこに住む人たちのいろんなドラマがあって、里山暮らしに憧れる人たちが増えつつあるのも分かる気がします。どこに住むかというのは、これからとても大事になってくると思うので、それぞれの好みやライフスタイルに合わせて、もっと移動の自由と選択肢が広がるといいですよね。

都会の喧噪に加え、このところ統一地方選の選挙カーがやかましいなあと思っていたのですが、都内はいまどこへ行っても選挙モード。国政選挙と違って、立候補者の数が多いので、選挙カーに遭遇する確率も高く、うちの近くでも歩いてすぐのところに3つも4つも選挙事務所が構えられていて、勤め人時代はほとんど自分の住んでいる区にいないので気付かなかったですが、こんなにたくさん区議の数がいるのか(要るのか)・・・と思います。公営掲示板に貼ってあるポスターの数に驚き、立候補しておられる方々のお顔を拝見しても、選挙公報を見ても、誰に入れようかまだ決めかねているのですが。

私は選挙運動ほど嫌なものはなく、何度か選挙事務所に放り込まれたこともありましたが、区議選であっても選挙事務所の雰囲気は同じですね。党幹部をはじめ人気のある議員からの「祈必勝」ポスターが事務所中に貼られ、運動員が揃いのウインドブレーカーを羽織り、のぼりを立て・・・なんかこう、昭和からまったく変わらない風景が目の前に展開されているいうか。戦後すぐ制定された公選法が変わってないから、この洗練されてない手法がいつまでも続いているという側面もあるのですが、「お騒がせして申し訳ありません」と本当に思ってるなら選挙カーは乗れないだろうとか、駅前の街宣も、通勤前で既に疲れている朝からやられると本気で腹が立ったものですし、やってる人たちはこういう選挙運動の「型」があり、それに従ってやってるだけなのですが、だけどそれを何の疑問もなく(しかも嬉々として)やっているというところに問題の深さがあり、どれほどの人の神経を逆撫でしていることでしょう。コミュニケーションが成り立っていない、名前を叫ぶ一方的な「宣伝活動」に終始するこの選挙のあり方、デリカシーのなさは異様だと改めて思います。

ある選挙で、「最後の追い込みだし、今日は事務所全員で鉢巻きをしよう!!」という通達が出され、私はそれがとにかく嫌で抵抗したことがありました。なんでこんなもの頭に巻かないといけないんだという美意識に反することを強制され、そして「みんなでこれをやるのが当然」という空気圧に巻かれるようなことはできませんでした。「それくらいのこと、適当にその場に合わせてやっとけばいいのに」ということが私には嫌でたまらなくて、どうしてもできない。選挙カーに乗り手を振っている候補者の姿や、選挙事務所におられる方々を見ていても、私はこの人たちの自分たちのやっていることに対する「疑問のなさ」が余計に嫌だったんだなあと、後から理解できた感じです。

2015.04.22

立法府の矜持

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☆記事と画像の関連性についてはお答えしかねます。

衆議院議長に就かれて4か月で、町村議長が体調不良を理由に辞任というのは残念なニュースでした。総裁選のときも途中で体調を崩され、また今回もということで、とても悔しい思いなのではないかと拝察いたします。何事も身体が資本ですし、ご快復をお祈りいたします。

ここ2代の顔ぶれに、衆議院の前例集に「議長はイヤミな人でなければならない」とか書かれてやしないかと心配していたのですが、後任は大島理森議長に決まり、私はいまも「副総裁」とお呼びしてしまいそうですが、国対委員長も長いですし、立法府の長としてとてもよくお似合いだし、またふさわしい方だと思います。年齢的に(68歳)まだ少し早いかなと思っていたのですが、河野洋平議長の記録を塗り替えるくらい名議長として長くご活躍していただきたいです☆

自民党幹事長が谷垣さん、議長が大島さんとなると、総裁と副総裁としてとても尊敬しているおふたりがこんな形でそれぞれのポストに就いておられるのがなんだか不思議な感じで、そしてそれはものすごい安心感でもあります。野党のときは、なんだかんだと楽しかったのですが、それもこれも谷垣総裁と大島副総裁のお人柄の賜物であったと思います。大島議長にはぜひ良識を発揮していただき、変な法案や怪しげな憲法改正案なんかが出てきたときには、与野党がしっかり議論を深め、また結論を得るときには大島議長の調整力を最大限発揮して、日本にとって良い法改正、憲法改正となるようにご活躍を期待しています。これから安保法制の審議が山ですが、谷垣幹事長と井上幹事長という最高に良識派のおふたりが与党幹事長に就いておられるというのも何か天の采配を感じずにはいられません。日本の未来のためにも、ぜひぜひがんばってください☆

2015.04.21

使わなソンソン?

Photoそういえばこのあいだ予算が上がったんだったなあとぼんやり思っていましたが、予算成立→執行という運びになったのを実感するようなニュースが出てきましたですね。わがふるさと・徳島県でも、「阿波とくしま・商品券」とか、「おどる宝島!とくしま旅行券」とか・・・

徳島が誇る「すだちくん」は大好きですが(もともとは私が高1のとき開かれた東四国国体のマスコットだったのです)、絶句してしまいました。Facebookで無邪気にたくさんの「いいね!」が押されていたりするのにも、そして何より、発売即完売という事実に。。。すだちくんをして「使わないともったいない!」というこの旅行券や、去年より1000円上積みされているという商品券の原資は、言うまでもなく税金ですよね。“地方創生”のかけ声のもと、「アベノミクスの温かい風を地方に!!」という期待を受け、政府与党としては地方創生関連予算は目玉のため、もう地方自治体からすると天から“降りて”くるのを待っていたおカネなわけで、そしてこうして張り切って“予算執行”されているというわけで・・・でもほんとに、本気でこんな政策に「いいね!」を押してていいんですか???

東京でも区議選が始まり、「プレミアム商品券」なるものが目玉公約になっているポスターを見かけますが、むかし「地域振興券」という名前だったと思うのですが、この導入が決まったニュースを、私は留学中のアメリカで目にしました。日本語が恋しく、そしてやはり新聞は紙で読みたかったので、読売新聞の衛星版を購読していたのですが、その頃(90年代末)の報道では新進党の解党とか、自自連立に向けての話だとか、あの頃の日本の空気がわからないのが残念なのですが、政治の世界もいろいろ動いている様子を、東海岸の、ペンシルベニアの田舎で一生懸命読んでいました。で、この「地域振興券」なるものが出てきたとき、「なんでこんなアホみたいなものを配るんだろう?」と思った自分がいました。そしていま20年近くの時を超え、ここ日本でそのときとまったく同じことを感じていることに、なんとも言えない思いです。なんでこんなアホみたいなこと、いまだにやっているんだろうと。

繰り返しになりますが、すだちくんは「使わないともったいない!」と言ってますが、この「お得分」は県の補助、つまり税金によって上乗せされていますつまり我々の負担なわけですよね。自分が払った税金なんだからなおのこと、自分も買って使わなソンソンという意味で「もったいない」と思われるのか、税金を使ってこうして徳島に来てお金を使ってくれるんならええんちゃう?と純粋な応援の気持ちなのか、いろんな考え方があると思うのですが、私はこんなものに税金を使うのがそもそも「もったいない」と思うのです。なにかものすごく間違っていると感覚的に思う。そんなんやるんだったら、税金をわざわざ取り立てて勝手に配ったりしないで、それぞれの可処分所得で好きなものを買える自由を広げられるよう、その分の税金を取らないでほしい。人からむしり取った税金を原資に、勝手に使途限定で“お得”だなんて謳われても、私はうれしくもなんともありません

それにそもそもこの政府与党、地方自治体の「予算と税を使って何かする」という発想そのものが迷惑でしかないですよね。PAの田舎にいた頃は、アメリカ経済は良かったのですが日本はボロボロで、地方振興策の一環で出て来た話であったと記憶しているのですが、しかしなんでこんな筋の悪い話が出てくるんだとがっかりした記憶がありますし、いまも日本経済がアベノミクスのおかげで(さすがにこういうことはあんまり言わなくなったんでしたっけ?)、地方経済もうまくいっているかのように見せないといけないため、地方自治体に交付金をばらまいて「底上げ」したように見せるための政策です。もともとは一時的なこの種の補助金政策を、ずっと続けることによって恒久化してる気がしないでもないのですが、だけどいつまでもこんなことが続けることなんてできないというのは分かっているはずなのに、だけどなんでこれが変わらないのか。それを喜んでいるような人たちが減らないかぎり、やっぱりこのハロウィーンシステムは続いてしまうのだと思います。

PAの田舎で、新聞を読んで「こんなことやるなんて、アホちゃうか」とつぶやいていた当時の私に、いまの私がささやいてあげるとしたら。「あんな、この地域振興券な、2015年の未来でもな、また似たような商品券が出てくることになるって知っとる?しかもその頃の国の借金は、1000兆超えとーけどな」(もう完璧には操れなくなった阿波弁)これを聞いたらきっと当時の私も、いまの私と同じように、あるいはそれ以上に絶句することでしょう。

同じアホなら使わなソンソンという損得勘定はそもそも間違っています。結局のところ人からむしり取った税金を原資に、いつまでもバラマキを続けているこのシステムは一体なんなのかということをぜひ考えてから「いいね!」を押していただければと思います。押したくなくなるかもしれませんし、それでも押すなら止めませんが。すだちくんは徳島県のキャラクターだから言えないでしょうけど、私は声を大にして言いたいと思います。それにしてもこのニュースが徳島の「珍ニュース」に分類されているのは、なにかの冗談なのでしょうか。

2015.04.19

LAの旅~Palos Verdesと日系人、そして魂の再生

Palos_verdes
ちょと遅くなりましたが、「LAの旅編」の締めくくりです。

旅の最後に訪れて最も気に入ったPalos Verdesは、South Bay Areaのさらに南にある、ビーチから望むと高台がゆったりと広がるエリア。もともとは何にもなかったただの丘を、日本からやって来た移民たちがこつこつと開拓し、いまのような姿になったのだそうです。この日は夕方まであいにくのお天気だったので、美しい写真が盛りだくさんのこちらをご覧ください(写真の黄色いテーブルのカフェに連れて行ってもらいました♪)

ここPalos Verdesは日系人が拓いたところではありますが、海が見渡せ、豊かな自然がのこるこのエリアは現在では白人のお金持ちが多く住むところであり、よって治安は良く、政治思想的には言うまでもなく共和党バリバリのところではあります。しかし「環境を守る」という点においては思想が入っていて、大統領選挙にも出たことのある大富豪トランプ氏がこの地にゴルフ場を建設するというと、「絶対に環境を壊さないこと」という住民たちの強い要望を受けて、いろいろな制約(トランプ氏にとってはですが)を課して造られた。いろいろ条件はあるのですが、まずインディアンの聖地があるところは絶対にアンタッチャブルであることをはじめ、建設の際には自然環境を破壊しないよう配慮すること、夜は照明をあかあかと灯けたりしないこと、近隣の住民たちにもオープンな施設にして、公園も一緒に造ること。さすがのトランプ氏も全部要望どおりにして、誰でも自由に入れる公園に加え、クラブハウスも一部開放しています。なんか噴水とかはちょとテイストが違って、ぎこちなさは多少あるのですが、周りに溶け込もうという努力は見てとれるものであり、公園にはちゃんとこのPalos Verdesは日系人の努力により拓かれた地であることを示す記念碑を設けてあったり、ふつうに近所の人たちが犬を連れてお散歩していたり、友人はここで子どもが歩く練習をさせたお気に入りの場所となっていて、本当に静かで、海も眺められて最高に気持ちのよい空間。映画やドラマの撮影にもよく使われるのだそうです。

何よりいいのは、こんな最高な場所がトランプ氏の私財でつくられたということ。税金なんか入ってないのは言うまでもなく、もともとプライベートなのだから維持管理費用なんかすべてトランプ氏が自前で持ってくれるわけなので、住民の負担ゼロ。それでこんな素敵な場所があるということがトランプ氏にとってもうれしく、住民にとってもハッピーという、まあ現実はそう美しいだけの話でもないようですが、だけどハコモノ行政どっぷりの世界にいた私からすると新鮮であり、この“うるさい住民”の力、そしてアメリカのお金持ちのお金の使い方、つまりもともとは単なる私欲であっても、こうして公益に資するやり方でかたちになるというのは素晴らしいと実感しました。公費でやれば、負担は住民に税で跳ね返ってきますから、Palos Verdesの方々はトランプ氏の富の恩恵を受けて、さらには環境も守られと、いい循環が発生しているのはうらやましいなあと思いました。

アメリカにおける日系人というのは、そう目立つ存在ではありません。私が留学していた90年代後半、社会学の授業で習ってびっくりだったのが、第二次大戦中に日系人は強制収容所に入れられたことをつい最近レーガン大統領が謝罪した、ということ。公民権運動だってそんな遠くない時期に起こったことなのに、日系人の過去との「和解」もそんな最近だったとは、と驚きました。この強制収容所体験というのは、日系人のアイデンティティに関わる重大事件で、こんな目に遭ったからこそ、日系人は政治的に団結することよりも、アメリカ社会にアジア系として溶け込む道を選んだという経緯があります。アメリカに留学生やビジネスで滞在していれば単なる「アメリカに住んでる日本人」ですが、日系アメリカ人はアメリカではアジア系アメリカ人の一角を構成するマイノリティの存在です。なので政治的には民主党支持というのは当たり前のことで、政治学のクラスで「誰でもいいからひとり政治家を選んで、この人がどこから政治資金を受けているかその投票行動と照らして調べてきなさい」という宿題で(これは面白い課題でした)、なんとなく共和党議員を選んだら、中国系アメリカ人のクラスメイトに「共和党を選ぶなんて信じられない!!」とものすごく驚かれたことを覚えています。それくらい、のんきな日本人として一時的にそこに住んでいるだけなのか、アメリカ人としてその国で生きているのかの違いがあるにもかかわらず、なぜか日本人は日系アメリカ人を日本人と同一視して接してしまうという悲しいすれ違いが起こっているようにも感じます。

この素晴らしい旅をガイドしてくれた、LA在住の大切な友人・ひろこさん。彼女の夫君アルバート・ムラツチ氏は日系アメリカ人で、カリフォルニア州議会議員を務めていましたが、昨秋の選挙では超僅差(なんと0.6%差)で共和党候補に議席をさらわれ、現在はカリフォルニア州司法副長官としてご活躍されています。アルさんはもともと州検事を務めておられたので古巣に復帰したかたちになりますが、選挙で公職から外れた後も、検察官になれる権利は引き続き持っているため、空席だった司法副長官のポストに就くことになったのだそうです。お忙しいなか時間をつくってくださり、いろいろお話したのですが、私は自民党を辞めて政治に心底疲れ切っていたこともあり、アルさんに率直な疑問をぶつけてみました。「政治家なんかよりも、いまの州検事のお仕事の方が、社会正義を追求するという点においては力を発揮できるのではないですか?」でもアルさんはキッパリと「いや、政治家にしかできないことがある」と。なぜかというと、「司法は法律のなかで法を執行するだけであり、既存の法律のなかでしか動けないけど、政治家はその法律そのものを作ることができる」と。ここで私はガーンときました。やはりアメリカの政治家は、lawmakerなんですよね。議院内閣制の下、法律は基本的に官僚が起案して、それを議会が通すという日本では議員立法はレアケースですが、アメリカは議員が法案を作る。自民党システムでは各部会で法案を審議し、国会で野党からの質問を受け、しかし多数を握ってさえいれば通るのは分かり切ったことなので国会論戦は“消化試合”な感は否めず、大幅な法案修正などもめったなことでは起こり得ません。この点でも、日本の国会は国会対策=法案議決のスケジュール管理であり、国対が法案を“上げる(通過させる)”のが仕事であることから、「てんぷら屋」と呼ばれたりして、lawmakerならぬ“lawpasser”であるのが実態という違いも浮き彫りになってきます。実際アルさんは4つの委員長職を務めながら、議員として法案を自分で書き、2年間の任期のあいだに14本の法律を議会で通したというsplendidな実績をあげてこられています。それだけに、結果だけでなく、「まだまだやりたいことがあるのに」という悔しさがとても伝わってきました。

もちろんそんなアルさんなので、既に心に期するものがあって、2016年の選挙を戦う準備に入りつつあります。私は素朴な質問をアルさんにしてみました。「なんで政治家になりたいんですか?政治家として、いちばんやりたいことは何ですか?」アルさんは、「政治家になりたいのは、さっき言ったように政治家にしかできないことがあるから。それは法律を変えること、つくること。これは州検事でいては絶対にできないし、法の行き届かないところや限界もあってfrustratedなことがたくさんある。それからお金の問題、政治資金。自分もいちばん苦労したところだし、アメリカの選挙はとにかくお金がかかる。ものすごい資金が動き、それが選挙の結果を左右するという状況を変えたい」と。答えを聞きながら、私は自分の疲れ切った心が、アルさんのさわやかでまっすぐな情熱により癒されるのを感じました。アルさんが日本の政治家だったらいいのにと思いつつ、現状を「変えよう」という思い、そして「変えられる」というのが政治の原点であり、政治の力なのだと思い出した。日本で現状を「変えよう」と思ってやっている政治家は、何人くらいいるかしら・・・悲観的につぶやく私に、アルさんは言いました。「政治家だったら誰でも、変えようとするのは当たり前なんじゃないんですか。それに変えようとする人がいなければ、何も変わりませんから」。このとき私は泣きそうになりました。私は同じことばを確かにある政治家の口から聞いたことがある。その人も、アルさんと同じように自分の国を「変えたい」と真剣に思い、日々誠実に頑張っておられる方だ。何も変わらないように見えるのは、変えようとする人が少ないからだ。だけど「変えようとする人がいなければ、何も変わらない」。

私がこのアルさんのことばをご紹介できるまで2か月近くも時間がかかってしまいましたが、書きながらまたあのときのさわやかな感動が胸によみがえってきます。妻としてアメリカ政治を見てきたひろこさんのエッセイも素晴らしいですし、日本人だとかアメリカ人だとかいうのを超えて、なにか人間として大切なこと、そして私が魔界で疲れ切って忘れてしまっていた志を思い出させてくれました。立ち直るのにこれだけの時間がかかりましたが、もう「政治から逃げない」と決め、またあたらしい気持ちで政治と向き合い、私の目で見て感じたことを書こうという情熱が湧いてきました。アルさん、ひろこさん本当にありがとうございました!!次は必ず勝利です☆

ちなみに帰国後に観たNCISのエピソードのなかに、事故現場に居合わせたので救命活動を行った元衛生兵の話があります。陸軍と空軍であれば、退役後もそのまま救命士の資格をもらえるのに、なぜか海軍だけはその資格が認められない。なので元海軍の衛生兵であるゆえに、救命活動を行ったのは違法になってしまう。人の命を助けてなんで逮捕されなきゃいけないんだ!!という話になるのですが、これが法の意図するところではない不備であり、こうした“法の矛盾”を法律家としてアルさんは実際に経験してこられたからこそ、そういう思いも強いのだなあと実感したのでした。それからもうひとつ、政治資金の話。LAタイムズにこんな記事が出ていました。ビリオネアが拠出する巨額の資金が政治をおかしくしている。アルさんもめちゃくちゃな金額が相手候補に突っ込まれたひとりです。「だから戦うんだ」というアルさんと、アルさんを支えるひろこさんを、私も日本から全力で応援しています☆

LAの旅編はこれで終わりですが、マンハッタンビーチを歩いているとき、アルさんが“Aichan、これ”と指差した先にあったTシャツに書かれた“You need some Beach Therapy”の通り、本当に魂cleanseされた旅でした。次の旅はどこにしようかな。LAにもまた必ず行きたいと思っています。正確にはSouth BaySouthern Californiaに、ですけど♪

2015.04.18

ボッティチェリ展@Bunkamura

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昨日はひさしぶりに絵を見に行ってきました。「ボッティチェリとルネサンス―フィレンツェの富と美」。そんなに人もいなくて、ゆっくり回れて、よく味わうことができました。フィレンツェの歴史もマキャベッリの時代と重なり、塩野七生さんの本を読んでいたこと、さらに最近の聖書の勉強もまた西洋絵画を理解する大きな助けとなり、時間があるときに読んだり勉強したり、ランダムにやってたことがふとこんなふうに自分のなかにあることを確認するとき、人生無駄なことはひとつもないし、予期してないところで後から役立つものなんだなあと改めて思います。

花の都フィレンツェで素晴らしい芸術が花開いたのも、メディチ家を中心とする財力のバックアップがあったからこそ。そしてそれは「金貸し業」というものに対するカトリックの罪悪感の刷り込みが背景にあったり、しかし回りまわって教会維持のために役に立つならOKという思惑もあってどこか抜け道というか、贅沢も一部許され、そんなことやってたら狂信的な修道士サヴォナローラが出てきて「虚栄」を焼き払ったり。なんてもったいないことするんだろう、「虚栄を廃する」と言って人前で贅沢品を燃やすことだって虚栄にあたるんじゃないか、美しいものは美しいと認めて残しておいたほうがずっとよかったのにと思わずにいられません。もちろんあまりに貧富の格差があるよりはないほうがいいですが、お金を持っている人がこんなふうに美しいものづくりに投資することは、全然悪いことではないと思うのです。お金のあるなしがいい悪いではなく、どういうふうにお金を使うかという「意図」が大切なのではないかと思います。なのでお金を持つことにあまり罪悪感を持たせすぎたり、贅沢を目の敵にしてみたり、減税措置が受けられるからとかいう現世的対応だけだったりというのは、どれも何か方向性が違っているのではないか、「心」が脇に置かれた考え方なのではと感じます。

こういう美しい芸術作品がいまを生きる我々の目にも届くということは、生み出したボッティチェリをはじめ当時の作者たち、そして庇護したパトロン、その後大切に守り続けてきた美術関係者の皆さんと、さまざまな人たちの努力によるもので、途中で価値を認めない人が出てきたり、火事に遭ったりしていたら残っていないと考えると感慨深いですし、こうやって完成するまでに、作者は何を考え、どんな思いをこめて描いたのかなあと思いながら絵を眺めていると、一瞬いま自分がどこにいるか忘れてしまいます。絵も真っ白なところから、作者の頭にイメージは完成していて、そしてそれを現実に落とし込むというか、自分の頭のなかにあるものを「産みだす」作業。大天使ガブリエルがマリアさまに「受胎告知」する絵も多くありましたが、なにかを創造するというのは、アイディアやイメージが自分のなかに生まれて膨らんで、そしてそれを絵や文章などで表現するという作業なので、大天使ガブリエルはいろんな人にいろんな形である意味「受胎告知」を行い、芸術をはじめ新しい技術、発想などを人々が産み出すことを助けているのかもしれません。“May the force be with you”というのも、聖霊の働きあらんことを、と考えるとキリスト教的な響きになってしまいますが、美しいものはなんかやっぱりどこか天の香りがするというか、人間の力だけで産み出せるものではないんじゃないかな、と思うのです。

だけどこの世に美を産み出せるのは、現実に生きている人間の手を通してのみ可能なのであって。そしてサヴォナローラのように、ひとりの人間の価値観が美しい創造に不可欠な自由な精神の邪魔をするという影響は、ボッティチェリの作品がその頃は精彩を欠いてしまっているという事実が物語っていることで。

仲良しの先輩が「これ読みなさい」と買ってくれた、東村アキコさんの『かくかくしかじか』。マンガ大賞2015受賞作品だとか。いつも私の幸せを願って、私の「ものづくり」の夢を応援してくれて、こんなふうに温かく優しい思いやりで包んでくれて、がんばらなきゃ!!です。もちろん自由に、のびのびと☆

2015.04.15

La Vita e Bella

花冷えを通り越して寒が戻りすぎ?なこのところの気候でしたが、皆さま風邪などひいておられませんでしょうか。今日はひさしぶりにおひさまと青空で心も晴れやかになりますね。急な冷え込みでしたが、私は心配していた風邪もひかずに、元気に乗りきることができて喜んでいます。ここ1か月半ほどは風邪もひかず、体調も崩さずにいる!!そんなん別に自慢するほどのことでもないのですが、そんな「当たり前」のことが誇らしく感じられるほど回復してきたことが心から嬉しいです☆

最近しみじみと思うのですが、私の友人知人はみんななんて素晴らしい人たちなんだろうと感動しています。人に会うのが少しこわかったときも、誰に会ってもいやな思いをすることがなく、いつも温かく優しく迎えてくれて、この素敵な人たちこそ私の宝物だと心から感謝しています。みんなにこの名曲、Natalie Marchant“Kind and Generous”を♪(“Thank you”が80回くらい出てくる歌です)

というのも、元気を取り戻しながらも心はやはり一部フリーズしたままで、「政治にはもう二度とかかわりたくない」と思い、いろんな嫌な思い出とともに魔界でのことはすべて「消え去ってほしい」とさえ思っていたのですが、最近ようやく人に会う元気も出てきて、政治の話になればアホみたいに蓄積されている情報がちゃんと脳から出てきて、「あの人はあんなことしてましたね」とか「どこそこ出身でしたね」とかいう話をしている自分がいる。こんな実世界では何の役にも立たない知識、しばらく使わなかったら忘れてしまうだろうと思っていたのですが、私の脳内にはしっかり保存されているようで、しかしこれこそが私の経験値でもあり、こういう話が好きな人と話しているとこれまた楽しい。必要のないことは忘れてるし、必要があるから覚えていられるのだろうし、ひさびさに会う方々から知的刺激を受けて、“会話で遊ぶ”ことが何より好きだった自分が戻ってきた感じです。

実は私は人の顔と名前を覚えるのが得意ではないので、国会議員の名前と顔を覚えるのだけでも大変でしたが、これに加えて選挙区と当選回数まではマストで頭に入っていないといけない世界なので、一生懸命覚えたものでした。機関紙記者のときは主に部会での発言などを通して覚えていくので記憶にのこりやすいのですが、役員室付になったとき、担当役員が不在時に「先生によろしく言っといてね」と立ち寄られる人の顔と名前が分からなかったらどうしよう、というのが常に恐怖でした。「いまの誰だっけ?」と聞く人もおらず、ましてや「失礼ですがお名刺を・・・」とも言えず、記憶をたどり国会便覧をめくり「この人だ!!」とヒットするまで探す、という冷や汗な事態も多々ありました(写真が違いすぎる人もいますが)。名刺を置いていってくれると自動的に「いい人」認定でしたが(笑)これは「ちゃんとわざわざ部屋までお訪ねしました」というアリバイ作りな側面もあるので、人間関係の維持発展に常に気を遣い尽力される国会議員の姿をみて、勉強になることもたくさんありました。

とはいえ小さい頃は女の子ながら「プロ野球選手名鑑」が大好きで、飽きずに眺めていたものですが、大人になったらこれが「国会便覧」に変わったという感じでした。野球と政治の両方をやると脳のメモリがオーバーしてしまうので、社会人になってからは政界(あとちょっと官界)メインでしたが、「顔・名前・選挙区・当選回数」の基本情報に加え「現在の役職」「主な経歴」「出身大学」「生まれ年」等々、いろいろと追加していくのは楽しかったですね。ちなみに自民党本部の受付嬢たちは、内閣改造や役員改選のたび、役職まで“すべて”覚えていてその仕事ぶりは本当にamazing!!です。大臣・副大臣・政務官、さらに党3役以下のいろんな役職名を付けて、車を呼び出すアナウンスをするのですが、いつも休憩時間はみんなで国会便覧を見て顔と名前と役職を覚える努力を欠かさないという彼女たちは、さすがプロだといつも尊敬していました。私は「性格」「思想」も重視していたため、各先生方の人となりや思想をあらわすエピソードは大好きで、こういう話が好きな人たちと話していると、お互いに仕入れたトリビアな知識を交換できてまた新たなネタ追加、という楽しい時間を過ごせるのですが、「まあ世の中で何の役にも立たんけどなあ」と前置きしながら、嬉々としてマニアックな話に花を咲かせるひとときは、私にとってはとても楽しい時間でした。

Vitaebella
こんなふうに、魔界でも「楽しかったことはたくさんあった」と思い出させてくれる友人たちの存在は本当にうれしいもので。それにそこでの経験があったから、いまの私があるわけで。逃げようとするとどこまでもいやな思いが追いかけてくるような感じになるのですが、しっかりと目を開けて見てみると、「いやなことばっかりじゃなかったな」というのも確かなことで。こんなふうに素晴らしい友人知人にも恵まれ、またいろんな経験をさせてもらったことには心から感謝しなければいけませんし、いろんなことはあるけれど、人生はやはり美しいものである、との思いを深めている昨今です。

☆ある人から「いやな思い出は“上書き”して、いいものに変えてしまえばいいんですよ」という素晴らしい気付きを頂きました。人生はこんなふうに、毎日素敵なプレゼントを用意してくれていると思います。

2015.04.12

Life

Photo
桜はほぼ散ってしまった東京ですが、意外とチューリップがあちこちで咲いているのを発見して、うれしくなっている今日この頃です。

こちらは教会の花壇のチューリップとパンジー。幼稚園や小学校の花壇でもおなじみのこの組み合わせ、よく考えると小さいころは桜なんか意識もしてなくて、チューリップがいちばん好きでした。愛らしい、フレンドリーなお花で、「♪並んだ 並んだ あかしろきいろ♪」だけじゃなくて、いろんな色があって、目を楽しませてくれます。パンジーも、街路樹のそばに植えられているのをあちこちで見かけます。お庭もそうですが、素敵だなあと感じるところは必ず、家主さんがきちんと手をかけているのが分かりますよね。街路樹で咲くお花も、誰かがお手入れしてくれているからきれいに咲いている。何事も同じだと思いますが、美しく保つためには人の手をかけないといけないのだということをこんなところからも実感します。

Dogs_are_our_gift
植物はもちろん、動物は決して「モノ」なんかではなく、私たち人間と同じ「命ある貴い生き物」。「殺処分」などという恐ろしい響きの行いが、この世からなくなりますようにと願って、この写真をシェアさせてください。統一地方選関係の見苦しいポスターなんかより、こういう人々の心に訴える力のある、しかもセンスのいいものがあちこちに貼られてたらいいのですが。

ちょと政治バージョンに改変してみますと→“We dream of a day when politicians take responsibility for their actions, and realize that politics is not a priviledge owned by a certain group of people, but a right exercized for the people's happiness.”

という感じでしょうか。「政治家は自分たちの行いに責任を取り、そして政治は一部の人たちのみが所有する特権ではなく、人々の幸せのために行使される権利であるということを悟る日が来ますように」。 

この賢そうなワンちゃんの表情は、人間を絶対的に信頼して見つめている目だと思うのです。政治はhopelessな気がしないでもないですが、この願いが、少なくともワンちゃんネコちゃんの命を守るということにおいては確かな希望となるように、人間としては頑張らないといけないですね!!

2015.04.10

愛がなければ・・・

最近いいなあと思っている曲のひとつ、Nate Ruess の“I'm Nothing Without Love”。愛がなければ、自分はnothingであると歌うこの曲は、“愛の賛歌”として知られる聖書のコリントの一節「もし愛がなければ・・・」を思い出します。

Love
たとえ、人々の言葉やみ使いたちの言葉を語っても、
もし愛がなければ、わたしはやかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

たとえまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、
また、山を移すほどの強い信仰があっても、
もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

たとえまた、わたしが全財産を人に施しても、
また、自分のからだをやかれるために渡しても、
もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

愛は寛容であり、 愛は情け深い。
また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、
いらだたない、恨みを抱かない。
愛は不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。

         <コリントの信徒への手紙1 13章1節~8節、13節>

「やかましい鐘や騒がしい鐃鉢」は英語では“a resounding gong or a clanging cymbal”で、「もし愛がなければ、わたしは無に等しい」は“but have not love, I am nothing.”で、そこで冒頭の曲からこの一節を連想する・・・というわけです。“Love is patient, love is kind”をはじめ、「愛とは何か」がぎゅっと詰まったこの一節にふれるたび、あまりにも実態とかけ離れた私の名前は間違ってるんじゃないかと恥ずかしくなるのですが(-_-;) 愛がなければ、すべてはむなしい。愛は色が付いていたり、目に見えるものではありませんが、愛がこめられた思いやことば、行いを通じて、ふれることができるものであると思います。そんなふうにどれだけ愛を“体現”できるか、そしてまた体験できるかが、この世に生きている意味なんだろうと思います。

人間は生まれたときは真っ白で、その後経験してきたことを通じて人格が形成されていくのだとすると、「見たことも聞いたこともない、全然知らないこと」や「まったく経験したことがないこと」をやれと言われても、どうしていいか分からない。なので「なんであんなこと言ったり/したりするんだろう」と他の人の言動に怒ったり傷ついたりしたときに、その人はただ「どうすればいいのか分からなかっただけなんだ」と思えば、別に傷つけようと思ってやったわけではないのだと理解はできると思うのです。自分自身を振り返っても、まったく同じですし。愛は「ゆるす」ということである、と言われるとものすごく大変なように感じますが、イエス様の「神よ、彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているかが分からなのです」という十字架上のことばは、そういうことなのかと最近ようやくお腹の深いところまで分かってきた感じです。

ただ世の中には明らかに「傷つけてやろう」と、悪意を持ってやっている“確信犯”もいます。そういう人は完全に魔界人ですが、「魔界ではそれが普通」であったと考えると、魔界しか知らないということであり、彼らだって魔界にいなければそうはならなかったのかもしれません。多くの愛にふれ、愛をたくさん経験すれば人は愛情深く「なれる」のだから、愛を感じる機会が増える→愛を学び覚える→この世に愛情深い人が増えていくという好循環を生み出していけば、“負の連鎖”の“負”そのものがなくなる世界=「愛が普通」の世界に入っていけるのではと考える昨今です。

2015.04.07

天使と悪魔

人生はドラクエ」が持論であり、魔界勤めが長かった私ですが、本当にあそこではいろんな人だけでなくたくさんの魔物も見てきました。

そこでいつも感じていたのは、なんであんなふうになってしまったんだろうなあ・・・ということ。「人間は生まれたときから善なのか悪なのか?」という命題を深く考えさせられるまたとない機会でもあったのですが、だいたいの方は性善説と性悪説のどちらかの立場を取られるだろうと思います。私はその中間というかどちらでもなく、人間というものは生まれたときは真っ白というかニュートラルな存在であるというのが信念なので、もともと「いい人」も「悪い人」もなく、逆に言えば「いい人」にも「悪い人」にも「なる」ものであり「なれる」ものでもあるので、それはその人の選択の結果であるとも言えると思います。一方でそれぞれ人生をたどっていく中で、家族や環境やいろんな出来事を通して、いろんな影響を受けながら人格というものは形成されていくので、魔物化してしまった人は、おそらく何か相当なことがあったのに違いない、「あんなふうになるとは、いったいどんな人生だったんだろう?」というふうに考えてしまうのです。

Photo_3ドラクエ9では「天使界の理」というのがあり、びっくりするような階級社会であったということは先日書きましたが(こちら)、ラスボスであるエルギオスはもともとは天使であり、人間たちを助けるという使命感にあふれた立派な天使でした。堕天使になってしまったのは、人間の裏切りに遭い、捕えられ幽閉されて、300年ものあいだ、人間への憎しみを募らせてしまい、そしてこんなふうになってしまったのですが、このエルギオスの気持ちを考えると、そんなふうに絶望してしまうのも無理ないよね、という気もするのです。「絶望と憎悪の魔宮」という恐ろしい名前の場所で、300年も助けに来てくれるひともなかったわけですから(実は天使界はずっと捜索していたのですが)。

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だけどだからといって、どんなことがあったとしても、「絶望と憎悪の魔宮」に行ってほしくはないと思いますし、昨今の日本であまりにも疲弊しきっている人が多いのを見るにつけても、ダークサイドに堕ちていく人たち、“魔物化”する人たちがこれ以上増えてほしくないと心から思うのです。なにがあったのか分からないけど、絶望と憎悪という深い心の闇により、周りの人たちも絶滅させてやろうというのは、これはもう迷惑どころの話ではありません。テロリストの論理も同じだと思うのですが(Homeland考)、 自分が不幸だからといって、そんなふうに人を呪い、他の人たちも道連れにしてやる!!というのは、これは結構いろんなところで起こっているのではないかと思うのです。

たとえば、自分が上司や先輩にすごくいやな思いをさせられたという経験があったとして、後輩に「同じようにいやな思いをさせてやろう」と思うのか、「あんな思いは二度とさせないでおこう」と思うのか。負の連鎖を再生産させるか、負の連鎖を断ち切るか。ここでどっちの選択をするかで、この世が魔界になるか天国になるかの分かれ目であり、どこかでこの負の連鎖を誰かが断ち切らないと、いつまでたっても魔界は魔界であり続けてしまいます。先日「うちの子どもがドラクエ3をやってます」と知らせてくれた友人は、いやな思いをしてきたからこそ「自分は絶対にそういうことはしない」とキッパリと言い、またそれを実行している人であり、しかも仕事も超多忙なのにきちんと家族との時間を作っていて、私はとても尊敬しているのですが、こんな人と魔界で知り合ったというのも不思議な気がします。もちろんいい仕事もする人ですが、彼のこうした態度や生き方は、仕事以上に世の中への素晴らしい貢献だと思います。

職場だけでなく、家族からの影響も甚大で根深いですよね。大学のときの友人が、「京都の女の子は表裏があって、悪口ばっかり言う。でもあれは、そのお母さんが悪口ばっかり言うてるからや」と言っていて、そういえば私の祖母も京都人で、悪口ばっかり言ってたなあ、でも裏表はなかったかなあ・・・などと思っていたものですが、こういうのはしっかりと親子間で引き継がれるものであるというのは確かだと思います。私の母は他の人には言いませんが、娘たちには言うので、実は私も妹も聞くのは結構大変でした。なのでいつからか我々姉妹の申し合わせは「あんなふうにはならないでおこう」となりましたが、やっぱり長年積もり積もったものがあり、普段言えずに抑えているからこそ、そうなってしまうのかもしれません。人の悪口にかぎらず、不平不満を「言わない」という美意識は素晴らしいのですが、あまりにも本当の気持ちを抑えたりするのは人間やってるとつらいので、本当に深い心のうちを話せる友人の存在は救いになると思います。なかなか「言えない」人もいるので、このあたりは難しいのですが。

ともあれ“我慢は美徳”の日本人は、本当にいろんなところで我慢しすぎだと思いますし、また我慢を他人にも強要しすぎるので、こんなに社会全体が抑圧的というかアンハッピーなのではないかと強く感じるのです。自分が受けてきたさまざまな抑圧を、さらに次の世代や周りの人たちにも同じことをするのではなく、こういう“不幸の連鎖”“負の連鎖”は断ち切るとキッパリと決めて実行することで、かなり日本の重苦しさも変わっていくと思うのです。そしてそれと同時に、いろんなことがありすぎてエルギオスになりかけてる人を助けることも大切なので、これ以上魔界が勢力を拡大し、「絶望と憎悪の魔宮」が繁盛することがないよう、それぞれができることをしていきたいですね。エルギオスを救ったラテーナのように、愛の力を発揮しましょう☆

*注:魔界生活で学んだことのひとつは、あまりにも魔物化がすすんでしまうと手の施しようがありませんので、魔物に「なってしまった」彼らを変えることはどれほどの勇者であっても相当困難です。“負のオーラ”にやられてしまうより、そのエネルギーを他のところへまわしましょう。魔界で「苦しみ、悩んでいる人たち」を助けていきたいですね。

2015.04.05

Happy Easter!!

Easterbunny

あまりいい信者でもないので、口に出すのは恥ずかしいのですが、私はカトリックです。ことしのイースターは、例年より・・・というより実際初めて、こんなふうに少ししっかりめにイエス様のご復活に向けて心を整える時間を持つことができました。これまでは、復活徹夜祭には「さすがに行かないとまずい(義務感)」と行っていたのですが、四旬節の意味や過ごし方を教わったり、イエス様のご受難を想いながら、「従順」とは何か、イエス様がのこしてくださった「互いに愛し合いなさい」という“掟”の意味など、私なりに真剣に考える期間となりました。イエス様は極め付けのような苦しみの“杯”をお受けになられたわけですが、キリスト教徒的意味合いだけではなく、地上のすべての人々にとって、世の中いろんなことがあるもので、誰もがそれぞれの悩み苦しみ悲しみを抱えて生きているんだということに思いを馳せながら、いろんな気付きを得ることができました。あまり参考になるかどうか分からないのですが、書いてみますのでよろしければお付き合いくださいませ。

思い出すのもつらいような出来事は、脳が一時的に忘れるように出来ているらしいのですが(実際私は本当に死にそうにつらかったときのことは、いまだにはっきりと思い出すことができません)、決して 「なかったこと」にできるものではありません。私自身、魔界で負った心の傷が癒えきっているわけではないのですが、それを「他の人に比べてたいしたことない」とか「この世にはもっと苦しんでいる人がいるんだから」とか、そんなふうに考えて「だから自分は大丈夫なんだ」と思おうと努力するのをやめました。他の人たちの事情や状況と比べてしまうと、自分自身の固有の体験の痛みは相対的な評価となってしまい、「これくらいで弱音を吐いちゃいけない」とか「つらいとか言っちゃいけない」などとして、その感情は「なかったこと」にしてよそへ追いやられてしまうことになります。

だけど本当に「なかったこと」になんかできるでしょうか?他の人たちにとってはたとえ大したことがないように思えることであったとしても、本人にとっては実際に起こった「あったこと」であり、そのときの感情はケアされずに放置されたままになる。そうすると、普段は何事もないように過ごしていても何かの拍子に噴き出してきて、本人が気付いてくれるまで感情は何度もpop upしてきます。このときに、「ああ、自分はそのときすごく傷ついたんだな」とか「あれはひどい屈辱だったよね」とか、誰がいい悪いということから離れて、とにかく「自分はそのときこう感じたんだ」ということを認めてやる自分自身を含めて誰も裁かずに、ただそう感じたことを受け入れる。そうすると、そのときの感情がある意味成仏するというか、pop upしてくるフタをしていた感情がひとつ減る、ということになります。

もうひとつ大事なのは、「いつも元気で明るくいなければ」などという、よく考えると人間として生きている限りかなり不可能な「他人の目に映る自分」を意識してそうあろうするのではなく、“No, I'm NOT okay at all”ということを認めて、満身創痍になるまで戦った自分をまずいたわることから始める、ということ。自分はもっと強い人間だと思っていたけど、実はそんなに強くもなく、「そうあらねば」と思い込んで「そうであろう」としていた。なぜか?そんな弱い自分でいたら、魔界ではとてもとてもsurviveすることなんかできなかったから。この自分の弱さを認め、受け入れると、他の人の弱さもまた受け入れることができるということに気付きましたし、まだ全然大丈夫じゃないのに「大丈夫でいなきゃいけない」と思い込んで、あやうくまた自分の心にフタをしてしまうところでした。人間やってるかぎりそんな完璧な人はいないし、また完璧である必要もないのですよね。

Put yourself first. You can't be anything for anybody else unless you take care of yourself.(自分のことを第一に考えましょう。自分をいたわることがなければ、あなたは、他のだれに対しても大したことはできません)”ということばに出会ったのですが、私もやはり日本人というか、“滅私奉公”がやたら尊ばれる魔界文化のなかにいたので、「まず自分のことを第一とする」というのは“わがまま”なのではないか?と罪悪感を感じてしまっていたのですが、決してそうではなくて、自分を大切にできないのにどうして周りの人たちを大切にできるでしょう?他の人たちの助けになりたいと願うなら、まずは自分自身を助けること。自分が癒されていないのに、人を癒せるわけがありませんもの。

そして自分を“犠牲”にしているように感じるほど、やりすぎる傾向があるのを改めるということ。この“報われなさ感”が続くと演歌の世界になってしまい、「こんなにやってるのに」と恨みがましくなってしまいます。でもそう思う自分が嫌で、また自分を責めてしまうことも含めて認めること。そしてそんなふうに感じるのなら、最初からそこまでやらなければいい。本来の私はもっとわがままで、自由でのびのびしているはずなのですが、他人から奪い尽くすのが“普通”の魔界ではひたすら忍従と自己犠牲を求められるため、最終的に力尽きて倒れてしまったのも無理はなかったですね。なので私は「従順」ということばにものすごく抵抗があり、キリスト教的な意味合いでの「従順」というのはまた違うとは思うのですが、このことばを聞くと心がフリーズしてしまい、決して羊のように従順ではない自分を再確認したりもしました。

NCISのシーズン11でジヴァが去るときに、“And that's not what I wanted to be!!”と魂から叫ぶシーンがあります。父親がモサドの大物であり、彼女もまた教育を受けて工作員として鍛えられ、実際めちゃめちゃ強い。だけど将来は「アメリカに行きたい」「バレリーナになりたい」と願った小さなジヴァは、大人になった姿からは想像もつかないけど“可愛い女の子”であり、今の“強い自分”はそうならないといけないと思って努力して作り上げたものであり、本当はそうではないし、またそんなふうになりたくもなかった。トニーとの別れがたまらなく切ないシーンですが、私はそのジヴァのことばが深く胸に突き刺さりました。勇者あいはそんなに強くもなければ、実はそんなふうになりたかったわけでもなかった。「そうしないといけない」と思って一生懸命やってきたけど、本当は違う。こんなの自分じゃない。心の奥に抑え込んできた、小さな自分の声を引き出してくれたシーンでした。

Where your wound is, there can be your greatest contribution. You know what it is to be vulnerable and in pain. Let that knowledge open to others who are hurting.(傷があるからこそ、あなたはすばらしい人助けができるのです。あなたは、傷つき苦しむということが、どういうことかがわかっています。あなたがわかっていることを、心を痛めている人たちに分けてあげましょう)”ーーこのことばのとおり、受けた傷のぶん人にやさしくしたい、助ける人でありたいと願っているのに、逆に大事な人の心を傷つけてしまうこともありました。「理解されるよりも理解することを、愛されるよりも愛することを、私が求めますように」という聖フランシスコの祈りは、相手の気持ちに思いが至らなかった自分を深く恥じ入らせてくれるものでした。

よりよく理解し、愛するためにも、この聖フランシスコの祈り・勇者あいバージョンはこうしたいと考えました。「理解されるよりも理解し合うことを、愛されるよりも愛し合うことを、私が求めますように」。「理解する」「愛する」だと、「自分は理解したつもりになっている」「自分はこんなに相手のことを思っている」という一方的な努力に終わってしまいがちで、本当の意味での理解や愛ではなく、自己満足の世界、視野狭窄になってしまうのではないかと思うからです(→そして「なのになんで分かってもらえないんだ」との不満につながる)。本当に相手の気持ちを理解するためには、この人は何を考えているのか、どういう状況なのかをよく知らないと思いやりも生まれませんし、自分の理解や愛が本当に相手の気持ちや求めるものにマッチしているかどうか、「相手と自分の思い」がきちんと通じ合っているか、常に確認しながら行わないと、バランスの悪いものになり、お互いに不幸でしかなく、こうして憎しみは生まれてしまうのだということでもあるのでしょう。愛も思いやりもやさしさも、循環してこそお互いの心を満たし合い、心満たされてはじめて感謝と愛の広がりが生まれる。自分の価値観の押しつけではなく、本当に相手がそれを喜んでいるかどうか、あるいは嫌がっているかどうか、相手の反応をよく見て臨機応変に行わなければ本当の愛ではない、と深く反省しましたし、自分が相手にしてほしいことを行うのではなく、相手が求めていることを行わなければいけない、ということにも気付きました。

先日お誕生日のカードを送ってくれた大好きで大事な友人からは、「“勇者あい”は、私の誇りです」ということばを贈ってくれました。こんな情けない、ずっこけ勇者なのに、それでもこうして大事に思ってくれていることがうれしくて、(T_T)(T_T)(T_T)でした。本当に、私の友達はなんて素晴らしいんだろうと感動するような素晴らしい人たちばかりなのですが、それぞれがいろんな悩みや苦しみがあったり、また乗り越えてきているのに、そんな苦労はまったく外ににじみ出ていない。だからこそ、本当に人を思いやることができる、やさしい人たちなんだなと思います。少しずつ、「なにか人を助けることがしたい」という思いも湧いてきましたし、この素晴らしい友人たちを見習って、天に帰るまで愛の道を完成させる努力をしていきたいと思っています。

電車に乗っていたり、特に都心に出ると、恐ろしく疲れ切っている人が多いように感じます。これほど疲弊しきった人が多く住む日本という国は、かなり全国魔界化が進んでしまっているのかと思うとなんとも言えない気持ちになります。いま悲しい思い、つらい思いをしている人たちの状況と心に、光が差し込む日が早くきますように。そして魔界のような状況下で苦しんでいる人たちが、そんな変なところに居続ける必要はないと気付き、一日も早く本当の心のままに動きだしていくことができますように。

2015.04.03

鯉と桜@椿山荘

Photo今日の東京はあいにく曇天でしたが、こちらは昨日、目白の椿山荘の桜です。ピンクの桜花色に染まった池のなかで、ゆったりと鯉さんたちが泳いでいるのが見えますでしょうか。いとをかし☆

今年はいろんなところの桜を見て歩くことができて、いままでいかにこういうのんびりした時間、自然の美しさや四季の移ろい、季節の花々に目をとめる心の余裕を持ってこなかったかに改めて気付きました。特に人生最悪の時期だった2年前の春は、桜が咲いているのにも気が付かず、お花見に行ったことすら記憶にないというくらいでした。それから考えると、いまこうしてゆっくりと呼吸ができて、自分のいろんな感情を大切にできるようになると、これまで払ってきた犠牲の大きさに愕然としますが、もうそういうことは絶対にしないんだときっぱり決意したのだから、大事なもののプライオリティが揺るがぬよう心しつつ、ゆっくりでも少しずつでも、歩みだけは止めずに前に進んでいきたいです。

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これは枝垂れ桜かな?留学中、DCの桜まつりに友達と行ったとき、私たちはずっと「すだれ桜」と思いこんでいたのですが、あとでそのなかの賢者が「なんか気になって調べたら、“簾”じゃなくて“枝垂れ”だったよ」と教えてくれて、日本のことを知らないものだなあと反省したりしたのもいい思い出です。

近くの神田川沿いは花筏ができていてキレイでしたが、提灯と電線が私の美的感覚からすると邪魔でしかなく、商店街の皆さんのせっかくの努力が私には残念なものに思われました。外国人には風流なのかもしれませんが、桜並木の美しさを損ねているとしか思えなかったです。

「なんか多摩川台公園みたい」「目黒川みたい」と、みんなの感想が同じだったのが楽しいお花見でした♪

2015.04.01

嘘をついてまで。。。

April_fools_fish今日はApril Fool's Dayということで、なにか可愛い嘘でも・・・と思ったのですが、あんまり嘘はつきたくないので、いつも通りにいきます。

この日はフランスでは“ポアソン・ダブリル”というお魚のお菓子を食べる習慣があるようですね。このあいだビゴの店で、このキュートなお魚に目を奪われました。ベリーも美味しそうで♪甘いもの禁止令下でなければ、速攻購入だったのですが。。。(T_T)お魚のお菓子→こいのぼり→柏餅とつい連想してしまいます。実は先日、あんまり美味しそうだったので、桜餅の誘惑には負けてしまったことを告白します(「だって桜咲いてるし!いまの時期だけだし!!」と言い訳するわが心の弱さをお許しください)。

「嘘つきは泥棒のはじまり」と昔から言われますが、人に対して嘘はつかない努力はしても、意外と自分自身に対してはそうでもないですよね。第一感で「変な人だな」と思っていても、「いやいや私がそう感じただけで、この人はいい人なのかもしれない」と思って我慢して付き合っているうちに「やっぱり第一感が正しかった」と思うことになったり、本当は嫌でたまらないのに顔では笑っていたり、大人になるにつれてこういう事態が多く起こり、あんまり自分の感情に正直に生きていたらsurviveできないから、いろんなところで自分の感情をだましたり見ないふりをしたりして過ごしてきたことはたくさんあると思います。

自分の感情に向き合うというのは時にというか、実はすごくしんどいことでもあります。ずっと心におさめていた怒りや悲しみは、時とともに「日にち薬」で和らぐものもあれば、「そんなふうに思っちゃいけない」と思って抑えていた感情はやっぱりどこかで噴火するもので、なんとか現在の状況をeverything is going alrightと思いこむため、「本当はこんなことするの嫌だ」とか「こんな人のために何でやらなきゃいけないんだ」等々、たくさんの感情を犠牲にしながら人は生きていくものである・・・と思って日々皆さん頑張っておられるのだと思います。

考えてみると私自身、本当は嫌で嫌でたまらなかったのに、自分の心の声を全部認めてしまうとそこにはいられなかったから、14年半も魔界で過ごしてしまいました。もちろん楽しかったり面白かったり、素敵な出会いもあったのですべてが最悪な経験であったわけではないのですが、しかし無駄に我慢と苦労をし過ぎたのではないかということは確かなように思います。最近気付いて認めたのが「本当は違うのに、好きなんだと思い込んで一生懸命やっていた」ということ。一応自分で選んだ仕事なんだから、「少しは好きにならないといけない」とか、「楽しんでなければいけない」と涙ぐましいまでに思おうとして、「自分の選択が間違っていたのではないか」という何度も訪れる自問自答をやり過ごしていましたが、どれだけ頑張ってもアンハッピーな状態が続いていた。いま思えば、あれだけ自分をだましながらやっていたので、消耗する一方であったんだなと分かりますが、そのときは日々のあれやこれやに忙殺されて、自分の心と対話することも忘れてしまっていました。文字通り「忙しい=心を亡くす」という状態だったですね。

ゆっくりと回復途上にはありますが、いろんな抑えていた感情というのはまだまだたくさんあって、消化しきれない出来事もあれば、「いまさら気付いたけどそんなふうに私思ってたんだ!!」というような感情もあり、心は本当に不思議なものだなあと驚嘆します。家にいるときはだいたいAFN(米軍放送)をつけっぱなしにしているのですが、昨年あたりから“physical fitness”“mental fitness”に加えて“spiritual fitness”の重要性を強調するCMが流れていて、「米軍でもそういうことを言うような時代になったんだなあ」とぼんやり思っていたのですが、WHOでもきちんとspiritual healthということは健康であることの定義のひとつとして入っていますし、いま疲れ切っている方々、そしてこれから社会人として新生活への希望に燃えておられる方々は特に、どうか心まで亡くしてしまうほど働かないで、何より健康第一を心がけてくださいねと言わずにはいられません。

のんきそうに見えるのか、「いつも元気だね」とか「なんの悩みもなさそうだね」とよく言われてきたものですが、そんなにいつも元気なわけでもなく、なんの悩みもないわけではないのに、そういうふうに見られてるならそう思ってくれてたらいいやと思って、本当は内心かなりつらいけど「はい、元気です」と笑って答えていたことも数知れず。こんなふうに私は無理に無理を重ねてしまっていたわけですが、逆に言えば魔界に適応しておられる方々もたくさんいるわけです。私にとっては魔界そのものでしたが、何のガマンもせず、ストレスもない方々もいるので、どっちがいいか悪いかではなく、ただ自分に合うか合わないかだけの話なのだろうと思います。ただハロウィーンランドですから、皆からむしり取る税金の使い方に関しては話は別になるのですが。

人に対してはもとより、何より自分の気持ちに嘘をつきたくない。いろんな意味で嘘の通用しない世の中になってほしいと心から思いますし、これからは身体と心、そして魂の健康を大切にして、ハッピーな人が地上に増えていくといいなと心から願います。日本が、地球全体が平和になるには、一人ひとりの幸せの集積が大きくなっていくしかないですし、「こうであれば幸せ」という、世間的にとか誰かが言ったりしている「幸せの条件」に合わせるのではなく、自分の魂が幸福を感じている生き方をそれぞれが選んでいくのがいちばんいいのでしょうね。

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