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2015年3月の記事

2015.03.31

夜桜

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このところ、桜はいつ咲くのか気をもみ、咲いたら咲いたで満開になるのが待ち遠しく、しかしいざ満開になったらなんかもう気が済んだというか(笑)ようやく心落ち着いて物事に取り組めそうな気がしています。皆さまはいかがでしょうか。

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東京の桜は本当にいまが見頃で、今日はまたいろんなところで出会いました。東京は桜が本当に多いですよね。日中のあたたかさはもう春本番。夜は冷えますが、夜桜もまた幻想的な美しさです。こちらは満月に向かうお月さまと一緒に撮ってみまいしたが、暗くてよく見えないかな?

春は芽吹きの季節なので、いろんなことが花開いていく時期ですね。

めったに開かない聖書ですが、「コヘレト」の「時と、人間の幸福」のこの一節が好きです。

There is a season for everything, and a season for every activity under heaven.(天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある)

フランシスコ会訳聖書では、「天の下のすべてのものには、その時期があり、すべての営みにはその時がある」となっています。その続きは下に付けておきますので、もしよかったらそれぞれの心で味わってみられてください。

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【コヘレト3・1-15】

  • 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
  • 植えるのに時があり、植えたものを引き抜くのに時がある。
  • 殺すのに時があり、癒すのに時がある。
  • 泣くのに時があり、笑うのに時がある。
  • 嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
  • 抱くのに時があり、抱くのをやめるのに時がある。
  • 探すのに時があり、失うのに時がある。
  • 保つのに時があり、捨てるのに時がある。
  • 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。
  • 黙るのに時があり、語るのに時がある。
  • 愛するのに時があり、憎むのに時がある。
  • 戦争の時があり、和睦の時がある。

人は労苦して働いて、どのような益を得るのだろうか。わたしは、神が人の子らに労苦するようにお与えになったつらい仕事を見た。神はすべてのものを、その時にかなったものとして美しく造られた。また、人の心に、永遠への思いを授けられた。しかし、人は神の業を、その初めから終わりまで見極めることはできない。わたしは知った。人は生きている間、喜び楽しんで暮らす以上に幸せなことはほかにはないことを。実際、人がみな、食べたり飲んだりして、労苦によって得たものを楽しむこと、これこそ神の賜物であると。わたしは知った。神の業はすべて永遠に変わらず、これに何かを加えることも減らすこともできないことを。神がこれをなされたのは、人々が神の前に畏れを抱くようになるためである。今あるものはすでにあった。これからあるものもすでにあった。神は過ぎ去ったものを、これからも呼び戻される。

2015.03.30

さくら@自由が丘

自由が丘の桜は、満開です☆What a beautiful day!!

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2015.03.28

Blooming!

東京の桜は、順調に満開に向かっています♪

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昨日は本当に気持ちのよいお天気で、この咲き始めた桜の向こうに見える青空もまた素晴らしい。まだ夜は冷えますが、吹く風もずっとあたたかくなったのを実感し、いよいよ春本番でうれしくなります。

ふだんは「緑道」と呼ばれているところが、一年のうちこのときだけ、一斉にピンク色に染まって桜並木に姿を変えていく。毎日歩いている道なのに、毎年毎年感動します。お気に入りスポットもいくつかあって(絶対内緒)、そこの桜がきれいに咲いているのを見つけて、“very nice to see you again!!”な気持ちになったり。気合を入れて臨むようなお花見は騒がしくて好きではないのですが、歩いていてふと見とれてしまうような、普段歩いていて気が付かなかったけど、「ああ、あなたも桜だったのね!」と出会うのが毎年の楽しみです。

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先日、木の幹から咲いているかわいらしい桜の写真を送ってくれた大切な友人に教わったのですが、こんなふうに幹からも咲くようになるためには、かなりの年月がかかるのだとか。「“さくらさん”に送りたかったの」という、ふと私を思い出してくれた心遣いがうれしく、やっぱり「さくら」が私にはしっくりくるのかなと思ったり。そういえばブログを始めてから、知り合ってわりと長くなる人から、「あなたが“さくらさん”だったとは!!」という驚きのメールも頂きました。こちらも「“さくら”をご存知だったとは!」とうれしい驚きでしたが、人生摩訶不思議なご縁でつながっているものです。

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こんなふうに幹にも花を咲かせるようになるなんて、どれくらいここにいたんですか?と桜の木にたずねたくなります。何事もそうだと思いますが、風雪に耐え、積み重ねてきた時間のうえに、美しい花を咲かせるのでしょうね。満開に向かっている、桜並木を歩くのがますます楽しみです。

皆さまも、もう咲いている地域にお住まいの方は桜を楽しまれて、まだの地域にお住まいの方はこれから咲くのを楽しみに、Have a beautiful weekend☆

2015.03.25

咲きはじめ☆

東京も桜の開花宣言がありまして、ところどころ咲きはじめました♪

Sakura近くの小学校では、この桜の木だけが咲き始めていました。なぜか小学校に桜はとっても似合う気がします。幼稚園のときも小学校のときも、入学式は私にとっては恐怖でしたが。。。こう見えても実はとっても人見知りで、新しい環境が・・・というか知らない人たちがウヨウヨいる環境がこわかったのでしょう。妹が生まれたのが小1の秋なので、長女といえども一人っ子気質も併せ持っているのです。子どもというのはその本質が容赦なく発揮されるので、イジワルな子はとことんイジワルでしょ。あのときは小さすぎて言語化できなかったですが、いま振り返ってみると「なんてこの世は野蛮なんだろう・・・」と驚き、幼稚園に入って2か月で高熱が出て入院。心労でしかなかったと思います。兄弟姉妹がいる子と違って世慣れしてないうえ、超早生まれなので、余計に。そんな子どもだったのに、長じて究極の魔界に勤めることになったとは・・・まさにlife is a mysteryで、everyone must stand aloneを学ぶためだったのでしょうか(→Like A Prayer)。

尊敬する女性は誰ですか?と聞かれたら、私が挙げるのはマドンナです。間違っても、マザーテレサなどのいわゆる聖人ではありません。聖人を目指すと疲れますし、人生が余計にしんどくなりますから。マドンナはMadonnaですよ。これ以上の聖女感はないくらいの名前なのに、中学生のときに日本にツアーに来ていたのをテレビで見て、度肝を抜かれました。なんてかっこいいんだろう!!!すぐ憧れました。歌も聴きこみました。そしてこのLike A PrayerのPVが教会をえらい激怒させた、という記事を読んで、そのときはアメリカへの漠然とした憧れはあっても、宗教知識もなければアメリカでのキリスト教事情なんかも全然分かってなかったので、「十字架燃やしたりしてすごいなあ」くらいの感想でした。マドンナはその後も何度も教会を怒らせて・・・というより教会が彼女の音楽や表現に怒っているのですが、そんなになんで怒るんだろう?といまも思います。

マドンナの最大の魅力は、とにかく既存の価値観をガンガン打ち破っていくところ。偏見からも自由で、人種や性別にも全然捉われていないし、そのある意味「あたらしすぎさ」がたびたび物議を醸すところではあるのですが、「常識」なんかにとらわれず、他人が何と言おうとも常に自由にあたらしいものを生み出し、自分を表現していく素晴らしいartistであり、creatorだと思います。

これだけのキャリアがありながら、意外にもsuperbowlのhalftimeshowへの出演は2012年と最近のことで、これも締めくくりはLike A Prayerで素晴らしかったですね・・・などと書いていたらAFNでちょうどいまかかりましたが^^ハーフタイムショー出演が決まったとき、スクールガールだった頃を思い出してうれしかったと言っていたことから、チアリーディングも取り入れていたり、楽しいショーでした。あんな保守的な中西部(ミシガン)で育ったからこそ、自由と自分の輝く場所を求めてNYに行くことになる。このNYへ行くときのエピソードも最高にかっこいいのですが、抑圧されていると本当の自分がよく分かるというのは、魔界生活を経て実感しているところでもあります。

最高だったのが、このhydrangea事件。ファンの一人がマドンナに紫陽花を贈るのですが、紫陽花好きじゃないのよね、と言ったのがマイクで拾われていて、あとでファンの気持ちを台無しにしただとか、紫陽花の気持ちを考えろとか批判を受けた。本当にファンなら、好きな花くらい調べてから贈るものだろうと思うのですが、あんまりうるさいのでマドンナは謝罪ビデオを作った。一応殊勝に謝ってみせながらも、「それでも私は紫陽花が好きじゃないし、バラが好きなのよ!!この国は自由な国よ!!!」と言い放つマドンナを私は最高に尊敬しています。

2015.03.23

LAの旅~Beach編

南の方から桜も咲き始め、東京の開花もまもなくですね。かつて「さくら」の名前で書いておりました私としては、春は自分の季節であると思っているのですが(笑)桜が咲くこの時期はそわそわしてしまいます。しかし忘れてしまわないうちに、LAの旅シリーズも書いてまいりたいと思います。

Santa_monica_pierLA・・・といっても広いのですが、ビーチもたくさんあって、いちばん有名なのはSanta Monica(この写真はSanta Monica Pierです)。South BayエリアにはManhattan Beach、Hamosa Beach、Redondo Beach、Torrance Beachとあり、それぞれ違う表情が見られて楽しかったです。

Santa Monicaは10年くらい前に訪れたときはそんなに感じなかったのですが、今回はなんかいい気分がしなかったというか、「いい気」を感じなかったですね。唯一どうしても行きたくて連れて行ってもらったのが、トム・ハンクスもごひいきというHuckleberryというカフェ。素材はオーガニック、ローカルから仕入れることはもちろんのこと、栽培・飼育方法まできちんと調べて仕入れている。私がオーダーしたturckyのサンドウィッチは、“free-ranged”のものでした。日本でも「平飼い卵」とかありますが、劣悪な環境で“生産”して市場に出しているお肉ではなく、外に出られて放し飼いされた、比較的幸せな環境で育ってきたターキーさんたちであるということ。ここで“cruelty-free”という概念が出てくるわけです。「動物実験を行っていない製品」という訳があてられますが、その発想の根幹は動物の命にきちんと敬意を払っているかということであり、昔はネイティブ・アメリカンは狩りをするときに、その動物に「私たちのためにあなたの命をいただきますが、よろしいですか」と確認し、感謝と祈りをこめて頂いていたそうですが、いまは我々人間が“消費”するために“生産”するという、よく考えると動物の命をなんだと思ってるんだというような犠牲のうえに私たち人間が活動しているわけです。だからanimal productsは一切食べないという、ベジタリアンやヴィーガンという生き方もありますが、私はお肉もお魚もそれなりに頂く派なので、「いただきます」と手を合わせてから食べる、という日本人の昔ながらの習慣は、犠牲となってくれた動物さんたちに感謝をこめるネイティブ・アメリカンの祈りをプラスすれば、日ごとの糧への感謝に鎮魂の祈りが加わり、このひとことにすべてがこめられている、素晴らしい食前の祈りではないかと思っています。

Huckleberryのすぐそばには、ペット用品のお店があり、その中で虐待されて保護されたワンちゃんネコちゃんもいて、お店で引き取り手のマッチングを行っていて、“Adopt me”というお洋服を着た、おとなしく賢そうな表情のラブラドールに心奪われました。彼女はしっぽがなく、恐らく誰かに切られたのでしょう。なんて残酷なことをする人間がいるのでしょう!!6歳なのに、我が家のラブラドール(よく食べる太めの10歳)に比べてもかなり細くて、これまで栄養不足だったんだろうなと思うと、同じ地上に生まれてきたのにこの差は何なんだろうと思いますし、もし自分が動物が飼えるときがきたら、絶対rescueされた子たちからadoptしたいと思っています。

アメリカでは動物虐待は犯罪ですが、目的が動物愛護だけでなく、犯罪抑止という観点もあるのですね。つまり動物を虐待するようなやつは、次は必ず人間に手を出すのだと。特に若者はそうだということで、犯罪抑止的な観点から取り締まりを行っているというのは、昨今の日本の凶悪犯罪をみても、動物虐待は次の犯罪のサインというのは立証されていると思います。ともあれそんなお店なので、犬用オーガニックシャンプー&コンディショナーが売られていたので、思わずうちの太め君のために買い求めてしまいました。彼は小さい頃、「シャンプー」と聞いただけでさっと逃げていたものですが(椅子の下にもぐるけど、おしりは出ているという典型的な「頭隠して尻隠さず」スタイル)、大人になってからは、嫌なのは変わりないけど、覚悟を決めてスタスタと自らお風呂へ行くようになりました。これでちょっと嫌な気持ちが和らぐといいのですが^^

Manhattan BeachとHamosa Beachはまた雰囲気が違って、特にHamosa Beachはとっても住民意識が高く、思想的にはリベラルな町。友人は「ちょっと自由が丘に雰囲気が似てない?」というのですが、確かに気の利いた雑貨のお店とか、カフェなんかは自由が丘にありそうだなあという感じも。自由が丘は、使用後の油をリサイクルしたサンクスネイチャーバスというのを走らせていたりして、環境意識は他よりも高いといえますが、オシャレなイメージとかけ離れた“昭和の雰囲気”も一方で色濃く残した街であり、Hamosaのような、街全体に思想として流れているというかというと、そこまででもないというのが実態であると思います。自由が丘は私が最も出没するエリアなのですが、オシャレと昭和の混在感は、LAの格差ほど激しくはなくても、ほんとちょっと歩くとびっくりするような下町感ある路地があったり、寂れたスナックがあったり、そもそも駅前の自由が丘デパートが昭和そのものであったりする不思議な街で、面白いところではあります。

話がそれましたが、そのHamosa Beachではちょうど住民投票が行われるということで、いろんなところで投票の意思を示すプラカードなんかを見かけました。日本も統一地方選を前に、あちこちで候補者の顔がデカデカとしたポスターを見かけますが、あれはどう考えても景観上美しくないと思うのです。あんな自分の顔があちこちに貼ってあるなんて、恥ずかしくないのかなといつも思うのですが、アメリカでは誰に投票するかを車のバンパーステッカーに貼って示したり、家の窓や庭にちょっとした看板みたいなのを掲げたり、控えめながらも「自分の意思」を、文字のみで打ち出しているところが全然違う。絶対こっちがいいですよね。曖昧なスローガンとか、写真の大きさとかでごまかせないですし。じゃあ候補者の顔をどうやって知らせればいいのか?というと、あちらはそんな受け身の発想ではなく、彼らは誰に投票するかを決めるために、自ら候補者に会いに行くのです。さらに選挙を手伝う。おカネも出す。ここがアメリカ草の根民主主義の強さだと思います。

で、Hamosaの住民投票は、石油開発を行ってもといかどうか?をめぐって。こんな平和なビーチでなんで石油採掘なんかを??と思うのですが、目的は当然おカネであり、この美しいビーチを、地球環境を守るのかどうかが争点となり、Hamosaの住民はもちろん、そんなものにはNOと言いました(拍手)。ここで私が強く感じたのが、やはり住民の意識が街をつくっているんだな、ということ。このビーチを愛し、環境を壊すようなことは絶対にしないんだ、という明確な意思、思想が入っている人たちが、そこを選んで住んでいる。だから街全体にこう、一本芯が通っているというか、その街の雰囲気を作っているんだなあと。「まちづくり」は行政主導ではなく、住民の意思を反映して行われるものであり、そこにはきちんと自分の意思や思想がある、自立した住民自治というものがセットでなければ機能しない。日本に決定的に欠けているのはこの自治の主体たる当事者意識=「住民意識」ではないか、というのは大きな気付きでした。

Torrance_beach日系人、日本人が多く住むTorranceのBeachはもっとゆったりと時間が流れていて、サーフィンに行けば普通にイルカさんたちに会えるのだとか。朝起きて、ひと泳ぎ(ひとサーフィン)して、そして仕事に行き、帰ってきたらビーチを歩いたり走ったりする・・・なんて夢のような生活に感じますが、work to liveなのか、live to workなのかという、よく言われることであっても日々の忙しさに流されていた自分を振り返って、ライフスタイルというのは自分の意思で創っていくものだという思いを新たにしました。この写真は、小さくてあんまり見えませんが、カモメさんが大集合しているのがわかりますでしょうか。地元の人が、こんなにカモメが来てるなんて!とびっくりしていたので、めったにないことだったようです。

さらに続きます!

2015.03.21

人生はドラクエ~天使界の“理”を外れて

今日は春分の日。春もそろそろ本番ですね。まだ体調に波はありますが、あたたかくなってきて、アップダウンが少しずつ緩やかになってきた感じで、喜んでいます。

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「人生はドラクエ」が持論の勇者あいですが、ひとつだけ大きく現実と違うのは、「この世にベホマはない」ということ。ベホマとはキズが“完全回復”する魔法ですが、この世では一度傷ついたり、倒れると完全回復するということはありません。年も取りますし。そこがゲームの世界と大きく違うところですが、この懐かしい画面を見ていると、向こうに見えるラスボスの棲まうお城はまさに魔界のイメージ図としてはぴったりでありましょう。毒々しいというか、おどろおどろしいというか。長年にわたる戦いから解放され、消耗しきっていましたが、春からはいよいよ自由に翼広げて羽ばたいていきたいです。そのためにもまずは身体が資本!!無理しすぎず、常に「ベホイミ」をかけつつ(かなりキズと体力を回復させてくれる魔法)、そして大事な人たちに回復と癒しの魔法をかけられるよう、さらなるレベルアップに励んでいこうと思っております☆

ドラクエ9(星空の守り人)では、主人公が守護天使として人間界に降りてくるのですが、「天使界の理」というのが出てきます。その“理”とはなにかというと、下級天使は上級天使には決して逆らってはならない。天使界でさえsuch a hierarchy(階級社会)であるというのは驚きなのですが、しかし主人公は、恩師であり、そのまた上級天使である堕天使をやっつけないといけない。そこで主人公は天使をやめて、人間になるのです。そうすれば、「天使界の理」=上下関係に縛られることなく、戦うことができる。サル山のなかではサル山の論理と人間関係がすべてですが、一歩外に出れば他にもサル山はいっぱいあり、そこでは当然のことが他ではまったく関係ないことである、ということと同じですよね。天使界(サル山)のなかでの上下関係なんて、その世界でだけ通用するものであって、よく考えるとそこまで絶対的なものではないわけです。

Photo_3でもそこにいるときは、その関係性は絶対だと感じますよね。私はある政治家から、「君は俺と対等だと思っているだろう」と言われたことがあります。「立場としては政治家とスタッフですけど、人間としてはもちろんそう思ってますけど、何か?」と内心思いましたが。魔界ですからこの階級意識というのもまたガチガチであって、私が異質であったのは、そういう意識が希薄だったからなのでしょう。だからといって別に軽んじてるわけではなく、誰に対してもそれなりの敬意を持って接していたつもりですが、そういう意識の強い人にとっては、私なんかの態度は許し難く映ったのでしょうか。政治家であろうと天使だろうと、たとえ魔物であっても、そこに上下はなく、ただ「自分の目の前にいる人」であり、その人がいい人かどうか、尊敬に値する人かどうかがすべてである、という思いはいまも変わりませんし、そこまで絶対的なものではない社会的立場なんか関係なく、みんな人間になりましょうというか、そもそもみんな同じ人間なのにと思います。

常にどちらが上かとか、自分にとって利用価値のある人なのかというのが判断基準という方々にとっては、権威をありがたがったり、その虎の威を借りたり、まったく忙しいことだと思います。このあいだは「超オッサン社会」たる永田町と書きましたが、正しくは「究極のオッサン社会」と実感をこめて訂正いたしますが、永田町より霞が関の方があからさまな階級社会だなあと感じることが多かったですね。見ていて気の毒なくらいに。なのであの独特の“負のオーラ”というのは、永田町だけでなく、霞が関一体にも感じるので、近付きたくないです。魔界だけでなくというか、あちこちでこういう魔界があって、この“理”に縛られて息苦しそうな方々(楽しいと感じる人たちはそれはそれで結構なことですが)の様子を見ていると、 もっと日本もフラットで自由な社会になればいいのになあと強く願います。別に天使になる必要も、戦う必要もありませんが、本当はもっと自由なはずなのに。

Respect_my_authorityこれはSouth ParkのCartmanの名言“Respect my authority!!”(「オーソリティ」ではなく、「オーソリテー」と発音)権威を振りかざしたり、無駄に威張ってる人たちはみんなこんな感じですよね。

権威と言われるものはなんでもそうだと思うのですが、みんなが「大したものだ」と思いこんでるから有難がられているだけの話であって、国も通貨も警察力も、この“信任”があるから通用しているもの。逆に言えば、みんながそう感じなくなったら、実はまったく意味がなくなってしまうという、大変にfragileなものでもあるということ。そこがもう既にかなり、相当揺らぎつつあるのではないかということも感じています。

2015.03.17

春はすぐそこ☆

東京もあたたかくなってきて、風に春の気配を感じるようになりました。既に明るい色の春物の装いな女性を見かけると、「オシャレは根性」というLAのキュートなリトルレディのことばを思い出しながら、気持ちも明るくなります。この冬は本当に寒かったし、ずっと風邪ばっかりひいている状態だったので、春の訪れをこれほど待ち遠しく感じたことはなかったように思います。とはいえこの季節の変わりめがなかなかの曲者で、やっとあたたかくなった☆と張り切っていると、朝夕の寒暖の差でまた風邪をひいてしまうという恒例のパターンがあるので、身体の声によく耳を澄ませながら、春の装いに切り替えていこうと思っています♪

なんかこのところ、眠くて仕方がないのも春だからでしょうか。

何か書こうと思ったのですが、なんだか頭が全然働かない・・・なので、このあいだ出会ったすてきなことばをシェアさせてください。

「急いでことをなそうとしてはいけません。風に舞う羽根のように軽々しくてはいけません」

Don't try to make something happenと言うとおり、無理してことを起こそうとしてはいけない。でもふわふわと思いが定まっていないのもいけない。そういうふうに自分なりに受け取ったのですが、「何かしなければいけない」モードに入ると、つい焦って動かそうとしてしまうのですね。体調もそうですが、良くなってきたかなと思ったらすぐ全速で走り出したくなるのを抑えて、よく心身の状態を注意深く見ながらすすんでいかないといけないなと改めて心しているところです。そして風に舞う羽根のように軽やかでありながらも、風に流されてどこかへ飛んでいってしまうことのないように、心はいつも愛を中心に。そんなふうに思っています。

Photoイメージとしては、この「飛び猫」みたいな感じでしょうか。

この真剣な表情は、自分はどこに行きたいのかという明確な意思を持ってるように見えますし、そしてそこへ向かって軽やかにジャンプ!!

こういうしなやかさ、見習いたいです^^

2015.03.15

Sounds like...(to me)

やや旧聞になりますが、今年のグラミー賞はSam Smithのためにあった感じですが、私にはどうしてもStay With Meが演歌にしか聞こえなくて悩んでいます。もちろんいい曲だと思いますよ。だけどPVはなんかちょっともっさり感があるし(前半)、いくら教会のゴスペル風に歌い上げても(後半)、聞けば聞くほど、これって演歌でしかないよなあ・・・という思いが拭えないのです。彼の美しい声は、さすがグラミーの値打ちあると思いますが、でもやっぱりどうしても演歌な気が・・・(しつこい)

ちなみに私にとっての昨年度の名曲No.1ソングはJohn LegendのAll Of Meでした。歌詞もメロディも本当に美しく、心に直球ストライクで響きます。彼の手書きの歌詞はこちら。 “All of me loves all of you, love your curves and all your edges, all your perfect imperfection”というのはtrue loveだと思いますし(→自分の至らなさを振り返ってみても(T_T)、ちょっと日本語にできない世界でもあり、変な訳を付けて野暮になってはいけませんので、そのまま味わいたい名曲です。

で、このふたりSam SmithとJohn Legendが一緒に歌うとどんなケミストリーが生まれるのか???このLay Me Downは、正直言ってBeeeautiful!!です。Sam Smithだけが歌うと(オリジナル)、やっぱり演歌入ってしまう気がしますが。歌い方の違いなのだと思いますが、Sam Smithも間違いなく歌はうまいですし、そしていい曲であることには異論はないのですが、John Legendの方が変な力が入ってないというか、透明感があって聞き苦しさがまったくないのです。私にとっては。まあ音楽は好みの問題ですし、人それぞれの感じ方でいいと思うのですが、どうしてもモヤモヤした思いがずーっと消えないでいたので、書いてみました。あースッキリ(笑)

Shark_katy_perry
最近のいちばんのお気に入りはWalk The MoonのShut Up And Danceです。ちょっと前の曲ですが、ParamoreのStill Into Youも大好きです。こういう底抜けに明るい、踊りたくなるようなのがいちばんいいですね♪そういう意味では今年のスーパーボウルのhalftimeshow performerを務めたKaty Perryも大好きなのですが、LAのディズニーアドベンチャーでアラジンのミュージカルを観たときに、Teenage Dreamを歌ったときに出てきた変な着ぐるみシャークをからかっていて大爆笑だったのですが、Superbowl Sharksとして一躍有名人になってたのですね!!あれはさすがに誰もが目を奪われたと思います(中の人も含めて話題になるほどに)。でもハーフタイムショー自体はとっても楽しかったので、観てない方はこちらで☆

2015.03.13

「思想」の入った生き方

このところお気に入りのアーモンドミルクが売り切れで、困っています。他のものは置いてあるのですが、私のお気に入りはPacificのアーモンドミルク。もちろんオーガニック!!「テレビで紹介されました」とかで人気があるのかと思ったら、西海岸の港湾ストの影響もあるのでしょうか(もう解決したんかな?)。ココナッツオイルにしてもそうですが、私は「テレビで紹介されたから」買っているのではありません。私は日本のテレビ番組をほぼマッタク見なくなって久しいので、「流されて消費」しているのではなく、「自分の意思で選んでいる」のだということは強調しておきたいです。

なんでそんなわざわざ力こめて言ってるんだと思われるかもしれませんが、日々の生活のなかで何を買うか、消費行動というのは、流されてするのではなく自分の選択だと強く思ってるからなのですね。消費=自分の選択は「誰かがいいと言ってたから」であれ、「なんかいいと思ったから」であれ、理由は何であっても、結局最終的には自分自身で選んだ結果であるわけです。この「自分の意思」を強く意識することで、自分の日々の選択に責任を持つようになるし、結局のところ自分の口にしてきたものが現在の自分の身体に跳ね返っているという反省も加わり、何事も自分のこれまで積み重ねて行動の結果が現在の自分の状態であるということから、そこはちょっと、というかかなり「思想入ってる」というか。

Wholefoods2
前置きが長くなりましたが、LAの旅ではWhole FoodsとTrader Joe'sに何度も行っては日本サイズよりさらに大きなカートいっぱい買い物をしてしまったわけですが、この規模のオーガニック専門スーパーが日本にもあればなあ・・・と心から思います。オーガニックをはじめ、「本当に身体にいいもの、環境にやさしいものを選ぶ」というライフスタイルが定着していることに加え、経営する側もやっぱり「思想」が入ってるわけですね。生産者からの近ければ新鮮であるのは言うまでもなく、運んでくる距離も短くて済む→環境負荷が減るためローカルの食材を仕入れている。この規模で事業を展開し、経営が成り立つということはそれだけの市場があるということであり、その思想に共鳴してそこの商品を選ぶ消費者がいるからこそ成り立っている世界

英語に“It takes two to tango”という言い方がありますが、タンゴを踊るには相手が要る→喧嘩両成敗(どっちもどっち)というより、一方的ではなくて、どちらも悪かったよねという、アメリカ人とケンカしたときに教えてもらって以来、フェアネスという概念の違い(と言っていいのか、日本語の世界にはフェアネスという概念がないような気がしているのですが)とともに、すごく素敵な言い方だなあと大事にしているフレーズなのですが、いいものを作る生産者&それを仕入れて売るお店、そしてその商品を買う消費者。両者が揃ってはじめてタンゴが踊れる=おカネが回る。自分の消費が「いいもの」を作り売る人たちを支え、環境を守りさらには経済にも貢献し・・・という、お金を使う方も気分が良いだけでなくさらには健康にまでいいという、誰もがハッピーな経済の循環が生まれていて、それが「サステイナブル」なライフスタイルなのだと実感するのです。そういう意味でも、政府が民からむしり取ったお金で、B級グルメなんかに補助金を出して無駄に使われるよりも、消費者がいいと思うものに自発的にお金を出して素敵な市場を作っていく方がずっと経済好循環になると思うのですが。

Pacificアーモンドミルクの入れ物もガッツリ思想が入っていて(zero wasteをめざしたrecyclable)、“good starts here”として“Ingredients from farmers and suppliers who share our high standards of quality(原材料は私たちが求める高い品質を共有している生産者・供給者からのもの)”“Tracking every ingredient to ensure food safety and tracablilty(すべての原材料は安全でどこで生産されたか追跡可能なものであることを保証されたもの)”“Sourcing as close to home as possible(できるだけ工場に近いところから仕入れる)”に続いて、“Sustainable agricultual and manufacturing practices that minimize our impact on the earth(原材料から製品づくりまで環境に配慮し、地球への負荷を最小限にする)”という、「サステイナブル」という広がりのあることばが出てきます。一回きりの消費でハイ終わりという、次々資源を奪い尽くしていくのではなく、自然の理にかなった生産と消費のあり方という感じでしょうか。なかなかひとことであらわす日本語がないので、いまだ理解を深めつついい訳語を模索中であります。

日本もかなり前から健康ブームではあるものの、アメリカの健康志向は「ブーム」というよりやっぱり数段「思想が入ってる」感じを受けるんですね。ベジタリアンやヴィーガンの人たちも多いですし、これはもう完全に「思想」であり、その徹底感からそういう印象を受けるのかもしれません。留学中、仲良しのひとりがヴィーガン(厳格な菜食主義者)で、一緒にごはんを食べに行くときに必ず「何が食べたい?」と聞いてくれるのですが、「で、あなたは何が食べられるの?」と聞き返して、結局友達(台湾系)の行きつけのチャイニーズに行って、台湾語で裏メニューを頼んでもらうというのがお決まりのパターンでした。みんなでお鍋を食べるときも、お肉など動物性のものと一緒に煮込んだら食べられないし、お出汁であっても魚を使ったていたら×なので、別途ヴィーガン鍋を用意したり、「ハチミツと卵は?」論争では、卵は分からないでもないけど、厳密に言えばハチミツは蜂が集めてきてるんだからanimal productではないのでは?とか、いろいろ議論しながら、教えてもらうことが多かったです。

ベジタリアンやヴィーガンだけでなく、世の中にはフルータリアン(果物とナッツしか食べない)というある意味究極の?人たちも存在するらしく、さすがにまだ実際に出会ったことはありませんが、映画Notting Hillで、傷心のヒュー・グラント演じるウィルを励まそうと友達夫妻からいろんな女性を紹介されるシーンがあって、そのなかのひとりがフルータリアンでした。動物の命を奪って食べるということ、さらには家畜を「育てる」というより商業的飼育の方法があまりにも残酷だということで、あらゆるanimal productsは口にしないし身に着けない、というのがヴィーガンですが、フルータリアンはさらに野菜も植物であり命も感情もあると考え、口にしていいのは自然の恵みたるフルーツとナッツのみ。ヒュー・グラントが「じゃあこのキャロットは?」とたずねると、 フルータリアンの彼女が「Murdered!!(殺されたのよ!)」と叫ぶシーンは、ウィルが忘れられないアンナ(ジュリア・ロバーツ)がベジタリアンということを踏まえるとより笑えて切ないのですが、ライフスタイルは思想の反映であるというより、思想がライフスタイルを作っているといういい例のように思います。

Wholrfoods1_2このWhole Foodsの紙袋にあるとおり、Values Matter(価値観が重要)なのであり、Treat your body like it belongs to someone you love(あなたの身体をあなたの愛する人のものであるように大切に)というのは、なかなか深いことばだと思いますし、このとおりに生きたいですね。

ライフスタイルが思想であるのか、思想がライフスタイルとなっているのか、卵が先か鶏が先かではありませんが、どちらにしても意思と価値観の表現そのものである、私の好きな言い方では「思想」であるということなのだろうと思っています。思想持って生きてる人は、たとえ自分と違った思想であっても好ましいですし。もちろんお互いに違いを尊重し合っているというのが前提ですが。いろんな価値観を持って生きている人がいることに配慮することがスタンダードな日本社会になるといいなあ。そして消費者のchoiceの力が大きくなっていって、サステイナブルでみんな(除:補助金をあてにしている人たち)がハッピーな経済を創り出していけたら最高のタンゴだと思います!

2015.03.11

3.11に思う

今日の東京は久しぶりに朝からおひさまが輝くさわやかな一日でしたが、夕方空を見上げると、雲が朱く染まって、今日この日がどういう日であるのかと教えてくれているようでした。もうあれから4年になるのですね。

私自身は積極的に復興支援にかかわっているわけではありませんし、友人知人が出身地を含め東京以西(西日本偏在)のため、東北は私にとって「遠い場所」でした。なのでこの日だけ急に思い出したように「復興をお祈りします」などというのは誠実な態度ではないと思いますし、そんなふうに今日はこっち、明日はあっちというように関心がフワフワ移りながら祈っても意味がない、支援と同じく祈りも日々継続して祈ることが大事であるということからも、この世に生を受け、生かされているひとりとして、いまこの地上で何ができるだろうということを考えていました。

好きな映画はたくさんありますが、なかでももう何回観てるんだというくらいalltime favoriteが「You've Got Mail」 。メグ・ライアンとトム・ハンクスが共演したロマンティックコメディ、という単純なジャンル分けでは語り尽せない、多くの素晴らしい気付きを私はこの映画から得てきており、そのなかでトム・ハンクス演じるジョーが“It's not personal, it's business.”という、元々はThe God Fatherのlineを引用するシーンがあります。男性的世界ではそうなのかもしれないのですが、女性的世界に生きるメグ・ライアン演じるキャスリンは、“But it is personal to me.”なのですね。ビジネスであっても何であっても、やっぱり割り切れないというか、男性の論理的&視野の広さに比べて、女性は身近なもの、自分の理解できる範囲でものを考えるという男女の違いがここでもあらわれるわけですが、 私はこのセリフを映画とは違う意味でですが、すごく考えるようになりました。

東日本大震災という経験が、この日は日本全体で共有した体験であるように報道されるわけですが、そのときどこにいたかとか、実際に被災された「当事者」から、家族友人知人に被災された方がいたり、復興に尽力されているという「シンパシーの強い方々」がいたり、うちののんきな家族なんかはそうですが、「どこか遠い世界の出来事」のように感じて普通に日常を生きている人たちとか、震災が起こったからといってみんなが同じ体験をしたわけではなく、その受け止めやインパクトの度合いはさまざまだと思うのです。どれくらいpersonalであるか。これは本当に100人いれば100人の違った物語があり、受け止めがあり、そのどれもがご本人にとって真実な世界、すなわち“personal”な経験なのだろうと思うのです。

私にとっての東日本大震災は、「当たり前」だと思っていた「日常」を根本的に見直すきっかけ、つまり「命は有限」であるということを突き付けられた出来事でした。 その後しばらくして体調を大きく崩したのですが、そのときに当たり前のようにあと30年くらい生きるんだろうと厚かましく思っていたけど、そんなのいつどうなるかわからない。だから「いま、この瞬間」を大切に生きようと心から思いました。とはいえその後も仕事の忙しさを理由に、大事なことのプライオリティがまたしても狂った生活に戻ってしまっていたのですが、魔界を離れてからは日々の生活を丁寧に、そして大事な人たちを何より大切にするという、本当はいちばんにしたかったことを後回しにしなくていいライフスタイルに変わりました。いま考えると、私はいったい何のためにあんなに頑張っていて、健康を犠牲にしてまで働いていたんだろう?と、根本的に大事にすべきプライオリティが間違っていたと改めて痛感しますし、今日は4年前に感じたことをもう一度かみしめていました。人生は「いま、この瞬間」の積み重ねでしかない。未来は今日の積み重ねの先にあるものであり、自分が歩いた道の先にあるものだ。だからこそ、大事なことを先送りにも後回しにもしている暇はないのだと。

これまでは 「日本のために」とか「国家国民のために」が主語の世界という、よく考えると極めて実体が不明な「曖昧な何か」のために頑張っていて、いや正しくは頑張っているような気になっていただけで、何か個別具体的にこの世に貢献するようなことができていたんだろうかと思うと、日々誠実に一生懸命生きている方々に申し訳ないほどふざけた日々だったと思います。だからこそ、「みんな」とか「全体」のために、というような、私の感覚からすると実体がないというか、顔の見えないどこかの誰かのためだとか、大きすぎてよく分からない国家とかのためではなく、まず何より自分が愛する人たちのために自分ができることをしたいと心から思うんですね。自分がpersonalなつながりを感じることのできる人間関係、“顔の見える”範囲で、自分の住んでいる地域の共同体という、意識の中心はマクロな世界からミクロな世界への転換というか。だけど「自分の住む世界がすべて」というような視野狭窄に陥らず、「すべてはつながっている」という外に開いた意識を持って、温もりを感じられるpersonalなつながりをまず何より大切にする生き方をしたいと思っています。

復興支援も祈りも継続が大事、と書きましたが、一時的な支援や祈りは誰にでもできますが、「ずっと続けてコミットする」ということは、これは本当に大変なことであり、有言実行で取り組んでおられる方々のご努力に心から敬意を感じずにはいられません。ペットを飼うことにも通じることかもしれませんが、命を預かって家族として大切にするという、嫌になったからと言って途中で投げ出したりできない「責任を引き受けるという覚悟」があってこそできることだと思うのです。私はあまり器用じゃないので、何かに集中し始めるとすぐ他のことがおろそかになってしまうのですが、愛を何より大切に、大切な人たちのために何ができるのか、一生懸命考えて、愛をこめて、責任を持って行動していきたい。そしてpersonalな、確かな温もりを感じられる人間関係のなかで、大切な人たちの幸せのためにお役に立てたら幸せだと思っています。

とはいえ、おっちょこちょいで先走って間違ったりすることもしょっちゅうで(-_-;)「本当に相手のことを思って行動する」という愛の体現にはまだまだ程遠い勇者あいではありますが、これからもレベルアップに励んで、少しでもこの世に明るい光をもたらすことができるような人物になって天に帰りたいと思っています。聖フランシスコの祈りのように、憎しみのあるところに愛を、絶望のあるところに希望を、悲しみのあるところに喜びを、闇に光をもたらすことができますように。

それぞれの人たちが、それぞれの思いを持つこの日に、私はそんなことを思いました。

2015.03.09

LAの旅~Southern California編

今日の東京は雨模様。こんな日は、West Coastのさわやかな青空と太陽を思い出しながら、LAの旅で気付いたことを書きとめることといたしましょう。

LA滞在中は、大切な友人が忙しい合間を縫って、いろんなところを案内しながら、アメリカの多様性、LAの「さまざまな顔」を見せてくれたおかげで、たくさんの気付きと学びを得た旅となりました。妹にとっては、ディズニーアドベンチャーに行った以外はメジャーな観光スポットを見て回る「普通」の旅ではなく、主にSouth Bay AreaとSouthern California探訪の旅となり、 アメリカのローカルを感じることができて良かったと喜んでくれましたが、普通ではない姉に付き合ってくれてありがとう、妹よ☆

私たちが泊まったホテルはSouth Bayエリア近くで、自分たちだけで動かないといけない日、「絶対乗ったらいけないよ」と言われていたメトロのBlue Lineにうっかり乗ってしまい、文字通り血の気が引く思いがしました。アメリカで感じる「身の危険」というのは、本当に命が危険にさらされているという切迫感なので、本当に怖かったです。まさに大暴動が起こった超危険地帯を思いっきり通るラインなので、まともな人たちは絶対に近付かないところ。どおりで街の荒れ具合や乗ってくる人たちが発している何とも表現しがたいトゲトゲしい雰囲気・・・そしてその後ダウンタウンからサンタモニカに移動するときに、Rapidに乗らないといけないところをLocalに乗ってしまい、これまた怪しげなエリアを通過し、いやな緊張感が続きました。ダウンタウンもサンタモニカも思っていた以上に治安が良くなくて、「LAってこんなとこなん??」とがっかり&疲れ切った私たちは早々と引き上げてぐったりしてしまったのですが、無事に帰って来れたから言えることではあるものの、聞きしにまさるLAの格差を目の当たりにできたこの衝撃の体験があったからこそ、結果的にその後の私たちの旅に深みが生まれたというのは確かです。ホテルからそう近くないところでも、何を思ったのか無防備に早朝に吉野屋に行った日本人が射殺されたという事件が一週間くらい前にあったばかりだったというくらいですし(しかもあまりにもありふれた事件のため、ニュースにもならなかったという)、「どこに住むか」ということが本当に人生を決めるのだということも実感しましたですね。

Amtrak_4
さてこちらは私たちが乗ったアムトラックが入線してくるところ(撮影:「み」様)。ダウンタウンにあるUnion StationからIrvineまで、約50分。この日は抜けるような爽快な青空で、IrvineからLaguna Beachのサンセットというコースで、美しいSouthern Californiaを現地在住ビジネスマン「み」様ご夫妻がご案内してくださいました。

Irvineに着いて、LAに着いて以来初めて心から感じた「安心感」。ここは本当に安全でした。基本的にお金持ちがLAから安全安心を求めて移り住み、高い税金を払うことで住民を選別する一方で警察力を手厚くという、ここに住んでいる人たちの価値観を反映した方針で街が運営されているとのこと。アムトラックで向かう途中のSanta Annaあたりなんかでは、不穏なものを感じるエリアがあったのですが、本当にこの激しい落差に驚きつつしばらく車で走っていると、私がいた(「み」様もビジネスで度々訪れておられた)東海岸のPAの田舎を思い出しました。整然とした街並みで、新しくて清潔で、モールも大きくてキレイで、「ああアメリカに戻って来たなあ・・・」としみじみうれしくなりました。そして「ここにはLAにはない“秩序”がある!!」と気付いたとき、安心感というのはどこからやってくるかというのを実感した瞬間でした。

Laguna_beach2


Irvineでは美味しい中華を頂いて、モールを探検。春節が終わったくらいの頃だったので、親戚なんかを訪ねてきたらしい中国人旅行者が多かったですね。その後IrvineからLaguna Beachまで車で移動しながら、夢のように美しい海岸線にはうっとりしました。ここもまた古くからあるアーティストがたくさん住んでいる、裕福な街なので、おっとりゆったりと時間が流れ、安全安心だし夕陽は美しいし、素敵なリゾートホテルMontageの波をライトアップした演出は本当に素晴らしく、ああOrange CountyとLA中心部のあまりにもあんまりすぎるこの「気」の違い!!!City of Angelsのはずが、エンジェルはどこにいるんだというような、LAのどよーんとした気にあたり疲れ切っていた私たちは、ここOrange Countyでこれぞカリフォルニアなまぶしい太陽の光をたっぷり浴び、ビーチで散策して精神的疲れがcleanseされ、良い気を十分にチャージしてすっかり復活したのでした。「み」様&奥様、私たちのためにいろいろとお気遣い頂き、本当に楽しいひとときをありがとうございました☆

こういう治安も良く気候も抜群なところには、当然ながら住みたいと思う人は後を絶たず、Irvineはたくさん建設中の住宅があって、IT企業なんかも移ってきていることから、続々と人口(しかもここにafford to liveできる→decent citizens)が流入してきており、今後も発展間違いなしの街でした。この人口流動性、そして住宅のゆったり広々感(LAのあたりはわりと住宅は密集している)は、日本ではどんなにまねしようと思っても無理だろうなあ、アメリカならではだなあと感心しきりでした。

LA旅シリーズ、まだ続きます!

2015.03.08

あさましきもの

今日はいい日曜日だったなあ・・・としみじみうれしくなる一日を過ごせましたが、もしいまも魔界勤めが続いていたら、「自由民主党大会」という、私が一年で最も憂鬱かつ悲惨な一日を過ごさねばならないところだったと思うと、自由になれたことを改めて心の底からうれしいと感じています。

魔界勤務時代、何がいちばん嫌かというと「選挙」と「党大会」、このふたつでした。昨秋の選挙も、嫌な予感がしていたこともあり巻き込まれないタイミングで去ることができたので本当によかったのですが、党大会の何がそんなに嫌かというと、政官業一体ハロウィーン勢力が一同に会するというイベントだから。地方組織、業界団体という“ロイヤルカスタマー”の方々が全国から集まってくるのですから、それはそれはもう異様な空間としか言いようのない(私にとっては、ですが)、“欲深勢力”の発する「気」にやられて這う這うの体で帰って来る、というのが毎年恒例でしたので、今回は例外的に3月ですが、いつも年明け通常国会前に行われるため、新年を迎えるのが恐怖でした。ああ、また党大会か・・・と思うだけで胃が痛み気分は沈み、苦行以外の何物でもなかったですね。

基本的には「政府が何かやってくれるのが当然」というマインドの下、「自分のところ/地方へさらなる補助金を!!」という税金に群がる人たちの集まりですから、なんかこう・・・あえて言葉を選ばずに描写すれば、物欲しそうな人々の群れというか、とにかく普通に生きていたら、この種の人たちがこんなに多く集まり発する“熱気”にあたるということは絶対にないというような、そういう凄まじい集いでした。だけどこの方々こそ党を支える基盤、すなわち「選挙をいちばんやってくれる人たち」なのだから、「この人たちを大事にしなければならない」と教えられるわけです。ある人の「この世界はギブアンドテイクだから」お言葉どおり(その方はそのことばを地で行くような人でしたが)、「テイク」も「ギブ」も税金ベース、すなわち人からむしり取ったお金という、関係者内での税金回し合いシステムの株主総会という感じでしょうか。関係者が集まって結束を確認し、来るべき選挙必勝を誓いながらこのシステムの維持発展を願い「ガンバロー」をするわけです。

関係者にとっては意味のあるイベントなのでしょうけど、関係者以外の目には異様にしか映らない世界であり、さらにこのシステムを維持するための原資は税金ですから、資金供給源・・・というかむしり取られている納税者の働きによりこのシステムが成り立っている、という根本的なところへの疑問と申し訳なさを感じないものなんだろうかと思いますが、当事者はそんなことは何にも考えてないどころか、むしろ「いいことをしている」と思っているところがタチが悪いところであり、このシステムに乗ったまま政治が動いているかぎり、どんな素晴らしい人が総理になっても変わることは難しいだろうと私は思います。

昨今閣僚の辞任が続いているようですが、補助金を交付された企業から献金を受けた政治家を問い詰めるよりも、そもそもなんでこんなに補助金を交付されている企業が世の中にあるんだという「おかしさ」を徹底的に議論し、「余計な補助金をやめる」方向に持っていくべきなのではないかと思います。これまでどれだけ、莫大な税金がこの悪魔的なシステムの維持に使われてきたことでしょう。もう政府は税金を使って余計なことをしないでほしい、という国民の心からの願いを聞き届けてくれる心ある政治家はおられるはずなので、そういう良識派議員は党派を超えて応援していきたいと思っています。

もうこのへんでいいかげん「お願い文化」、もっとハッキリ言えば「公金タカリ体質文化」を廃して、自助自立を基本としたあたらしい政治文化に取って代わっていかなければ未来はない、ということは関係者のなかにも分かっている人はおられると思います。地方再生はある意味“旬”ですが、あくまで現状維持をめざして滅ぶのか、自分たちの力で何とかしようと努力するのか、各地域がどちらの道をとるのか、二分化されていくのでしょうね。

2015.03.06

梅の花 香をかぐわしみ・・・

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少し寒いけど、午後散策していて出会った梅。いつからここにあったんだろう。凛と、というより威風堂々と、りっぱに咲いています。写真では香りまでお届けできないのが残念!

もう一枚はこちら。梅の木に止まっている鳥が見えますでしょうか?

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うぐいすさんだと思うのですが、仲睦まじく寄り添っているめずらしい姿に、思わずパチリ。ウォーリーを探せみたいですが、見つけられますでしょうか。とっても愛らしいカップルでした。

梅を歌った昔の人の「うた」に、こんなのがありますね。

「わが屋戸の梅咲きたりと告げやらば来(こ)といふに似たり散りぬともよし(『万葉集』巻六1011番:作者不詳)」

<解釈>「わが家の梅が咲きました」なんて言うと、「見にいらしてね」と口にしてしまっているようなものだわ。別に散ってしまっても構わないんだけどね(→いま来てくれたら、こんな素敵な梅が一緒に見られるのに残念だわ。だけどいちいちそんなことをこちらに言わせずとも、「訪ねて行くよ」と言ってくれればいいのに)。

複雑な女心をうたっておりますが、梅の香もほのかに、まだしばらくは美しく咲いていますわよ、と付け足したくなります。

午後は好天だったのに、夜は雨が降り出してきました。ひと雨ごとに、あたたかくなっていくこの時期ですが、私「あい」は帰国後またさっそく熱が出たりしたので、もういいかげん春がきてほしくてたまらない感じです。

【追記】

Sさんより、ウグイスではなくてメジロですよと教えていただきました。梅にはウグイスと思い込んでおりましたが、メジロさんたちであったようです。ご指摘ありがとうございました☆

2015.03.05

“No Sugar Added” please!

東京は「春はまもなく」と教えてくれているような気持ちのよいお天気☆てくてく外を歩いていると、ほんのりとした良い香りに誘われてふと見上げれば、軒先の梅がかわいらしく咲いていたり、食いしん坊としては菜の花や春キャベツの登場にうれしくなったり、季節感を味わうのはやっぱり日本だなあと改めて感じております。もう少ししたら、桜も咲きますものね^^

アメリカではコーヒーはRegularかDecafを選べるので、「そうだDecafを飲めばいいんだ!!」と気付いて、日本に帰ってからはコーヒーが復活しました。この「選択肢」が日本でももっとあればいいのですが・・・スタバでも「カフェミスト」以外のものはDecafでは作ってもらえなくて、しかも「抽出に10分ほどかかりますがよろしいですか?」と聞かれました。Decaf人口の少なさゆえなのか、Decafなんかだったらコーヒーはそもそも飲まないという人の方が多いのか分からないですが、これからは「Decafのあるカフェ」探しという新たな食べ歩きミッションが追加された感じです。

LAではDecafをガンガン飲んでいたというか、これしか選択肢がなかったので本当に助かりました。あとは甘い飲み物しかないので。アメリカはNutrition Facts(栄養成分一覧表示)がしっかり義務化されているので、Sugarのところを見ると自制心ではなく恐怖心というか、普通に36gとか書いてあると恐ろしくなって手に取らなくなります。いちばんびっくりしたのが、レモネード。たしか68gとかだったと思う。ペットボトル1本にですよ!!目が飛び出そうになりました。留学していたときに大好きだったチョコレートを妹に紹介しながら、裏のNutrition FactsのSugarをチェックしていると、いかにこの時期に大量の糖質を摂取していたか、自分の悪行の数々が追跡調査で分かり、改めて愕然としました。アメリカは「Fat Free」「Trans Fat Free」 「Gluten Free」は充実しているのですが、その一方でSugarについてはあまり関心が払われてないというか、当然のようにどっさり入っているという、あの国ならではのバランスの悪さを感じたりしました。No sugar addedという表示がもっと増えればいいのにな。

ちなみに私が買ってきたブランマフィン4個入りパックには、これだけの“売り”を書いていました。「No Preservatives(保存料不使用)」、「No Cholesterol(ノンコレステロール)」、「No Dairy(乳製品不使用)」、「No Hydrogenaited Fat(マーガリン不使用)」、「No Trans Fat(トランス脂肪酸ゼロ)」、「Non GMO(遺伝子組み換え作物不使用)」 。徹底しています。GMOはGenetically Modified/Manipulated Organismのことで、日本語だと「組み換え」ですが、英語だとmodified(修正された)/manipulated(操作された)となり、語感的にもより一層恐ろしい。ヴィーガン(ベジタリアンよりさらに厳格な菜食主義者)マフィンになると、牛乳やバターといった乳製品だけじゃなくて、卵も当然使われていないということが表示されます。

とにかく食に関しても、宗教的にも思想的にも、健康的にも、いろんな価値観を持っている人たちがいるのが前提で社会が動いているので、ちゃんとそれに合わせた選択肢が用意されているところはアメリカのいいところだと思います。給食でアナフィラキシーショックを起こしたというニュースを聞くたびに、こういう子たちは基本的には「例外」扱いされているんだなという日本文化を痛感せずにいられません。なんかどこか対応がめんどくさい感のある「例外」扱いではなく、食べられないものがある子なんだという「違い」を、愛をもって気を付けてあげなければならないというふうになってほしいです。

前からずっと、広報で農林を担当していたときも思っていたことですが、日本でもこの栄養成分表示をもっともっと詳しく、そして表示の義務化をしてもらえないものなんでしょうか。化学調味料や保存料についての意識は、「かなり気にする」人の割合が高くなってきたような気がしますが、和菓子や洋菓子、市販のマヨネーズやポン酢なんかに入っているSugarをグラムで表示すれば、衝撃を受けて自発的に買わなくなる人たちが増えると思います。特にケチャップは、相当入ってると思いますもの。だからこそ表示なんかされたら困る、という動機なら、それは国民の健康を犠牲にしてどこかで誰かが儲けていることを助けているだけなので、これだけ医療費がかかっているのだから、とにかく砂糖/糖質の取りすぎだということにもっともっと意識が向かうように、栄養表示を徹底すべきではないでしょうか。

あれこれ言うよりも、Facts(事実)が何よりも強力だと思うのです。

2015.03.03

Land of the free

3月に入っても、まだまだ東京は寒いですね。曇り空の今日は、毛糸の帽子を装備して寒風を防ぎつつ、春が来るのが心から待ち遠しいです。

久々にアメリカの自由な空気を吸って帰ってくると、ふと手に取ったある新聞のコラムで、日本ではliberty、freedomの訳語として「自由」をあてたが、自由ということばは日本では「我がまま」だとみなされていた・・・というのを読んで、この日本の息苦しさの源にふれたような気がしました。

とにかく「周りに合わせる」ということが暗黙の了解のようになっていて、自由にのびのびといることが悪いことであるかのように感じるけど、アメリカでは別に何をしようと誰も何も言わない。この落差は、いまだに本当に常々痛切に感じることです。

永田町という超ドメスティックな世界でいたから余計にひどかったのだと思いますが、アメリカで2年半過ごして日本に帰ってきてからの私のreverse cultureshockはかなり深刻なものでした。

文化も習慣も母国と「違う」のが当たり前だから「行き」はまあいいけど、「帰ってから」のはつらいよと聞いてはいたものの、「帰国子女は自己主張が強く、ワガママだ」というレッテル貼りと偏見が恐ろしく蔓延っていたのには参りました。「帰国子女」なんて、小さい頃から海外にいたり、せいぜい高校生までの時期に海外にいた人のことを言うのかと思っていたら、私のように大学を卒業してから留学した人にまで言うのかと。何かする前から常にそういう目で見られるというのが本当に嫌でした。

アメリカにいると、ちょっと人とぶつかっても“Sorry”と言いますが(そんなことを言わない人たちはもちろんいますし、仕事とかでのミスはめったに謝るということがない人たちですが)、いつくらいからか、日本では道を歩いていても「よけない」人たちや、まるで他の人たちが存在していないかのように人にぶつかりながら歩いて平気な人たちがなんでこんなに多いのかと感じていたのですが、のんびり歩いてるとボコボコぶつかってしまい、危なくて仕方ありません。東京だけなのかと思っていたら、田舎に住む母もアメリカのこの文化は前々からいいねと言っているので、日本全体でこういう文化を守る人の割合が低下しているのかもしれません。

まあ場所にもよりますし、気持ちのよい人たちももちろんいるので一概には言えませんが、「日本人はモラルがある」と言われても、うーん・・・まあ他に比べればそうかもしれないけど、おかしな人たちだってたくさんいるよ、と全面的には賛成できなくなった自分がいます。

と考えると、「日本人」とか「アメリカ人」という括りでは、こういう話をしてもあんまり意味がないな、とますます感じてしまいます。日本人でも変な人はたくさんいるし、アメリカ人にも変な人はたくさんいるし、だけど全員が変だったり悪い人だったりするわけじゃない。あくまで個人の問題で、いい人もいれば悪い人もいるというのは、世界中同じだと思うのです。

LAのタクシーの運転手さん(エジプト出身)が、私たちが日本から来たと言うと「日本は素晴らしい」とやたらほめてくれましたが、日本の技術力が地球環境を救うことになればそれは素晴らしいことだよねという話をしつつ、だけど政府は賢くなかったり、モラルの低い日本人だってたくさんいるから、decentであれば何人であっても素晴らしいし、日本の技術が世界にシェアされて持続可能な未来を創造する助けになればいいよね、というような話をしました。

もちろん私も日本人ですから、「日本は素晴らしい」とほめられて悪い気はしませんが、それをもって自分も素晴らしい人間になったような気になるメンタリティは持ち合わせていないので、LAの日本人社会では愛国心に燃える方々が結構な割合で存在していて、傷ついたナショナルプライドを慰めるための講演会が行われてそれがかなりの盛況なのだと聞いてびっくりしました。

東海岸の田舎(超白人社会)で過ごしたので、日本人(アジア人)ということで差別も経験しましたし、「ドレスデンの空爆は間違いだったけど、トウキョウの空襲は正しかった」などと発言するクラスメイトに言い返せなくて悔しかったりしたこともたくさんありますし、だけど自分の自尊心を埋め合わせするためのナショナルプライドなんて、少なくとも私は必要だと感じません。日本人だからとか、所属している何かによって自分が偉くなったり低くなったり感じたりするというのは、いったいどういうメンタリティなんでしょう。

ある時期から、愛国意識に燃えるその種の人たちの言動が激しくなってきたなと感じてはいましたが、なんで日本と自分を同一視しているんだろうというのが私のかねてからの疑問でした。自分自身のアイデンティティが日本人であるということに重きを置いているということは、それ以外の自分自身がはっきりしない人たちなのではないだろうか?というのが私なりの観察結果ではあるのですが、なにか虎の威を借りなければ、自分に自信を持つことができないと言っているようなものであり、国籍や社会的な肩書の前に、あくまで個人として自分がどうであるかということに尽きると思うのです。

日本人であるとか帰国子女であるとか自民党に勤めてるだとかいうことで、いろんな偏見やレッテル貼りをされて嫌な思いをさんざんしてきたので、私はとりわけそういう思いを深めてきたのかもしれません。

「全体」として語られて、個人としてまったく関係のないことなのに「全体」の責任を負わされて糾弾されるというのは本当に疲れます。個人レベルでは友情が築けるのに、国や所属しているところの立場を個人レベルの関係まで持ち込むような野暮なことはしない方がいいよね、ということが普通になればいちばんいいと思いますし、日本人一般の話ではなく、個人としてほめられるような人物でありたいと思います。日本人がほめられたからと言って、私個人がほめられたわけではないですから。

あと今回の旅では、レディーファーストでエレベーターやドアで先に通してくれるたびに、やたら感激している自分がいて、なんでかな?と考えてみると、こういう気遣いや思いやりのなさがほぼ存在しないところで長らく過ごしてきたからかなと。このブログを書き始めてから、「超オッサン社会」たる永田町で感じたことを女性の視点から書いてみたら?という人がいて、「超オッサン社会」って・・・いったいどういうことを指して言っているんだろう???と考え込んでいたところ、思わぬところからヒントを得たというか、形が見えてきたというか。一言でいうと「デリカシーのなさ」というのがいちばんぴったりくるような気がします。

とりとめのない話になりましたが、日々感じていることが、なんか少し言語化できたような感じがしています。

2015.03.02

無事帰国

無事LAの旅から戻ってきました!2月28日に向こうを発って、こちらに着いたら日付をまたいで3月になっていました。私は時差ボケはこれまでほとんどなかったのですが、マイナス17時間差というのはなんかすごく調子が狂うものですね。なんかまだ頭がボンヤリしておりますが、3月になりましたし、beach therapy really workedで元気を取り戻しましたので、張り切って書いていきたいと思います。

今回は観光地めぐりというよりも、メインはビーチ探訪&アメリカのローカルを楽しむ旅という感じでした。唯一観光というか1日たっぷり遊んできたディズニーアドベンチャーは楽しめましたが(特にCars Land はかわいくて面白かった!!)、アメリカは歴史が短いだけに、心躍るような「歴史的に価値ある見るべきもの」というものはそんなにありませんものね。ショッピングといってもあまり物欲はない方ですし、「日本にないもの」でmade in Chinaでないものをとか考えていると、そもそも買えるものが絞られてくるうえ、さらに円が強くない現下の状況では現地購入のメリットもあまりないので、アバクロのセールで多少お買い物をしたくらい。アメリカサイズでは身長154cmの妹はもちろん、170cmの私でもキッズものでちょうどいいフィット感なものがあったりするので、掘り出し物を発掘できてご満悦でした。

なのでお買い物はWholefoodsとTrader Joe'sがいちばん嬉しかったですね。食べ物になると俄然目の色が変わり、食いしん坊の本領発揮でいろいろ買い込んで帰りのスーツケースがかなり重たくなりましたが(笑)大のマフィンloverである私はブランマフィン(ブルーベリー、キャロット&レーズン)に加え、さらにorganic wholewheatのパンも買って帰りました。スーツケースに入れたら潰れて大変なことになってしまうので、そんなこともあろうかと日本から持参のたっぷり入るくまモンお土産バッグが大活躍!!無事持ち帰ったアメリカのパンで久々にサンドウィッチを作ってみると、留学時代を思い出します。アメリカ人のルームメイトから「クッキーモンスター」と呼ばれるほど愛したチョコチップクッキーは、甘いもの禁止令下なので封印でしたが、食べ物と記憶は密接に結びついているものだと実感しています。

さすがにスーツケースが重くなるので買わなかったですが、最近アーモンドミルクにハマっています。カリフォルニア産100%を売りにしているものが何種類かありました。豆乳は嫌いではないのですが、お豆腐や納豆などに加えて飲むとなんか身体が大豆過多なのを察して「もういらん」と言っているような感じがして、アーモンドミルクはどうだろうと思って試してみたらこれが実にまろやかで美味しいのです♪アレルギーテストでは反応は出ないけど、ナッツを食べるとすぐ吹き出物が出る体質なので、大丈夫か心配だったのですが、「牡蠣は絶対だめだけどオイスターソースは大丈夫」という人が私以外にも何人か存在を確認しているので、アーモンドや胡桃は食べたらすぐ「めんちょ」発生の事態となりますが、アーモンドミルクになると大丈夫のようです。いまのところ私は、ですけど。こういうのって、身体はいったい何に反応して嫌がったり受け入れたりしているんでしょうか。

まだ頭がモウロウとしていますので、続きはまたあしたということで!

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